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源義重 - Wikipedia

源義重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新田義重 凡例
時代 平安時代末期~鎌倉時代初期
生誕 永久2年(1114年[1]
死没 建仁2年1月14日1202年2月8日
改名 義重、上西入道(法名
別名 新田太郎
戒名 不明
墓所 群馬県太田市円福寺
官位 従五位下九条院判官代、左衛門尉
木工助、大炊助
氏族 清和源氏新田氏
父母 父:源義国、生母:足利成綱の娘、
養母:藤原敦基の娘
兄弟 義重義康季邦
新田義兼里見義俊得川義季
額戸経義合土義佐
山名義範得河義秀(諸説あり)、
源義平室、足利義清室、武田信光室、
那須与一室?

源 義重(みなもと の よししげ)もしくは新田 義重(にった よししげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将新田氏の祖。

目次

[編集] 経歴

武家棟梁として名を馳せた河内源氏三代目の八幡太郎義家の孫。源義国の長子。異母弟は足利氏の始祖の源義康源季邦(義房・八条院蔵人)ら。新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。贈鎮守府将軍

[編集] 新田荘の立荘

父の義国は下野国足利荘を開墾したがこれは次男の義康が継承し、長男の義重は父義国とともに新たに上野国新田郡の開拓事業に乗り出す。その過程で、親族の源義賢武蔵国平姓秩父氏下野藤姓足利氏(義重の母方の親族)といった諸勢力とは緊張関係に陥るが、一方南関東の支配者で弟義康と相婿でもある源義朝義平父子とは提携し、娘を義平の室としている(また甥の足利義清にも娘を嫁がせている)。

保元2年(1157年)、平家系の藤原忠雅領家として新田荘の立券に成功、新田荘司と称した(当時の上野国司藤原重家の舅が鳥羽院御願寺金剛心院の造営に深く関与をした藤原家成であり、藤原氏北家花山院流藤原忠雅の母の兄も藤原家成であった)。

ここに至り、かねてより敵対していた縁戚の藤姓足利氏・平姓秩父氏らと本格的に武力衝突し、渡良瀬川の強行渡河作戦によってこれを撃破し(秩父足利合戦)、さらに北関東における地盤を確固たるものにした。同時に親族の甲斐国武田信義と親交があり、信義の嗣子信光に自分の娘を嫁がせている(このことが頼朝の反感を買った要因のひとつとされている)。

平家全盛時代にはこれに臣従し、従五位下大炊助に任ぜられる。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵の際には、甥足利義兼(義清の異母弟)・子山名義範・孫里見義成らが早期にその麾下に帰参したのに対し、義重は一時日和見的態度を取る。この背景には、北関東での主導的地位にあり頼朝を格下に見ていたことや、新田荘が平家方の荘園であったこと、また木曾義仲とは親子2代に渡る宿敵関係でありこれを牽制する必要があった、といった要因が挙げられる。

[編集] 源氏の最長老

やがて頼朝の威勢興隆を目の当たりにし慌てて鎌倉に駆けつけるが容易に頼朝の不信感をぬぐうことはできず、安達盛長の取り成しでようやく帰参が叶ったという。さらに、未亡人となっていた娘(源義平室)を頼朝の側室にと乞われるもこれを拒否し、より一層頼朝の不興を買ったと伝えられている。

甥の義兼が逸早く頼朝の下に駆けつけて活躍し以後代々北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつくことによって幕府内での地位を保ったのに対し、義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であり、幕府成立のために積極的に協力したとは言いがたいものがあった。このことが足利・新田両氏の処遇の差となって表れ、後代まで尾を引いていくことになる。 但し義重自身は源家の最長老であり、幕府成立時点で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として一定の敬意を受けていたようである。この頃に出家し、上西入道と称したという。

晩年は、嫡男の義兼とともに新田家の家督を継いだばかりの幼い曾孫の政義(孫の義房が早世したため)の後見役を務めた。建仁2年(1202年)に老衰のために新田庄で没した。齢89。

吾妻鏡』では、建久4年(1193年)4月28日頼朝は那須狩の帰りに式部大夫入道上西新田館にて遊覧し、没年の建仁2年(1202年)1月29日の記述には尼御台所(北条政子)が将軍家(源頼家)に対して、「故仁田入道上西(義重)は源家の重鎮であったが、その死去から二十日もたっていないのに蹴鞠に興じるのは然るべからず」と叱責する記述がなされている。

[編集] 新田本宗家

[編集] 新田氏一門

  • 里見氏(大新田氏)
  • 山名氏 - 足利一族として山陰で勢力を蓄え、侍所の長官を勤めた。
  • 得河氏(諸説あり) 
  • 江田氏
  • 世良田氏(江田氏得川氏
  • 額戸氏(額田氏)
  • 合土氏(“あいつち”と呼ぶ)
  • 庄田氏
  • 岩松氏 - 新田本宗家が衰退した後、新田氏惣領職を獲得し本家とされた。
  • 荒井氏(荒居氏)
  • 新井氏(新居氏) - 新井白石がその末裔とされる。
  • 大館氏 - 室町幕府で要職を務めた。
    • 綿打氏
    • 金谷氏
    • 関岡氏
    • 北村氏
    • 大草氏
  • 堀口氏 - 南朝から美濃を与えられ、美濃に土着。
  • 谷嶋氏
  • 細谷氏
  • 下細谷氏
  • 西谷氏
  • 今井氏
  • 安養寺氏
  • 脇屋氏
    • 佐田氏
  • 嶋田氏 - 義貞の庶子とする義央(義峰)が祖。
  • 堀江氏
  • 中村氏
  • 横瀬氏由良氏 - 本姓は武蔵七党横山氏小野篁の末裔という。

[編集] 脚注

  1. ^鑁阿寺新田足利両家系図」によると、生年は古来から諸説があり保延元年(1135年)や天治2年1125年生まれの説がある。
先代:
-
新田氏歴代当主
初代
次代:
新田義兼
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