山名義範
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山名 義範(やまな よしのり)は、鎌倉時代の武将。
通称は太郎三郎。山名氏の祖。官位は伊豆守。『平家物語』では次郎教義と記されている。
新田義重の庶子という。子は[1]山名義節(『平家物語』では次郎義行)。孫は山名重国・山名重家ら。
その一方、父が足利義清(矢田判官代)として、生母が義重の娘とする説もある[2]。
上野国八幡荘の山名郷を与えられ、山名氏を称した。1175年-1177年ごろに、豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。義範は他の兄弟と比べて新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の中でかなり冷遇されていたと見られる。
父とされる義重は平家打倒を目的に挙兵した源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買ってしまっているが、逆に義範はすぐさま頼朝の元にはせ参じて「父に似ず殊勝」と褒められ、御家人として、優遇され活躍した。
『吾妻鏡』の記述を参照とした「群馬県郷土史」の『新編高崎市史』によると、山名義範は初めから足利一族として、足利義兼と常に終始、行動を共にしたと指摘している。同時に頼朝の上京に兄弟とする新田義兼・得川義季(得河義秀)とともに同伴したことが記されている。