松平康英
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生誕 | 文政13年5月26日(1830年7月16日) | |||
死没 | 明治37年(1904年)7月5日 | |||
別名 | 万太郎、康直、松井康英 | |||
戒名 | 恭徳院殿謙誉覚道翠山 | |||
官位 | 従五位下石見守、周防守、侍従 正四位、従三位、従二位 |
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幕府 | 江戸幕府外国奉行、神奈川奉行 大目付、町奉行、奏者番、寺社奉行 老中 |
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藩 | 陸奥棚倉藩主、武蔵川越藩主 | |||
父母 | 父:松平康済、養父:松平康泰 (松井康泰) | |||
妻 | 正室:松平康正の娘 継室:鍋島直正の娘 |
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子 | 松平某(長男)、松平康義(次男) 娘(六郷政賢正室)、娘(酒井忠亮正室) 養子:松平康載 |
松平 康英(まつだいら やすひで)は江戸時代幕末の大名。老中。陸奥国棚倉藩第4代藩主、武蔵国川越藩初代藩主。松井松平家12代。
幕臣五千石寄合席松平軍次郎康済の長男として江戸木挽町に生まれる。通称は万太郎。最初の実名は康直。弘化4年(1847年)12月10日実父の隠居により実家の家督を相続。嘉永4年(1851年)9月より翌5年(1852年)9月まで駿府加番を勤め、安政2年(1855年)7月19日火事場見廻役へ異動、安政5年(1858年)11月29日には寄合肝煎(三千石以上の旗本の世話役)、同年12月8日講武所頭取、安政6年(1859年)12月15日外国奉行就任となり同日、従五位下・石見守に叙任され、翌日には神奈川奉行兼任となった。
翌万延元年(1860年)9月15日には外国奉行を罷免され、神奈川奉行専任となる。しかし文久元年(1861年)4月12日には再び外国奉行に兼任となり、同年8月21日には江戸・大坂・兵庫・新潟の開市の延期とロシアとの千島・樺太国境画定交渉の為、欧州へ行くことを命じられ、同年12月22日に交渉使節団副使として欧州各国へ向けて出発し、翌万延2年(1861年)12月11日帰国した。帰国直後の28日に神奈川奉行を罷免されて外国奉行専任となり、翌日には三百石を加増された。文久3年(1863年)7月20日には但馬出石藩主仙石家のお家騒動(仙石騒動)に連座して半減されていた二千五百石を再び与えられ、従来の五千石に戻る。同年8月14日勘定奉行に任命され、翌元治元年(1864年)6月24日には大目付、その5日後の29日には町奉行に任命され、同年11月20日宗家陸奥棚倉藩松平家の家督を相続した。
棚倉藩主となった後の元治2年(1865年)1月11日周防守に任官され、同月実名を康英と改名。同月20日には奏者番兼寺社奉行に任命され、同年3月8日下野宇都宮藩へ転封を命じられる。この後慶応元年(1865年)4月12日老中に任命され、同月25日には外国事務取り扱いを命じられ、同月28日には従四位下に叙された。同年10月15日には宇都宮への転封が中止となり、同日二万石を加増されたが、翌日老中を辞職した。しかし1ヶ月後の11月20日には再び老中に再任され、以前通り外国事務取り扱いとなった。同年12月15日侍従に任官される。
翌慶応2年(1866年)4月12日海軍事務取り扱い兼任を命じられ、6月19日陸奥白河藩へ転封を命じられたが、前白河藩主阿部家の都合で国替が手間取ったため、そのまま10月27日武蔵川越藩へ転封された。慶応3年(1867年)5月12日には会計総裁兼任となり、外国・海軍事務取り扱いは免除された。慶応4年(1868年)2月5日には老中を罷免された。同年4月14日明治政府より謹慎を命じられ、1ヶ月後の5月13日に謹慎を解かれた。翌明治2年(1869年)4月10日家督を養子松平康載に譲り、隠居した。
この後、明治20年(1887年)12月28日正四位、同26年(1893年)6月16日従三位、同37年(1904年)従二位(死去の日と同じ?)に叙される。同年7月5日75歳で死去。法名は恭徳院殿謙誉覚道翠山大居士。また康英は川越においては、城下宮下町に藩校長善館を開いた人物として知られる。
夫人は幕臣三千石勘定奉行・松平(松井)備中守康正女の鍵姫。後夫人は幕臣五千石西丸御小姓番頭・鍋島伊予守直正(「政」ではなく「正」が正しい)女の直子。墓地は、天徳寺(東京都港区虎ノ門3丁目)。
[編集] 出自の問題
「川越市史」3 近世編583頁には「康英は松井家分知松井信濃守康功の子として天保元年(1830年)に生まれ、同じく分知で旗本五千石寄合席松井軍次郎康済の嫡子となり(後略)」と記述されており、この記述は諸書にも継承されているが、これは完全な間違いである。原因は恐らく、同じ「川越市史」史料編 近世1の727頁掲載の康英の履歴書(明治元年作成)「分知松井信濃守康功亡養父松井軍次郎康済嫡子」の記述を「実父は分知松井信濃守康功」「養父は松井軍次郎康済」というように分けて解釈したからであろう。しかし、これは完全な誤読である。なぜなら康英の養子康載の履歴書(明治元年作成)が隣に掲載されているが、それと比較をすれば一目瞭然で、康載の履歴書には「戸田丹波守光則隠居尤香斎光庸六男」とある。冒頭の戸田丹波守光則とは康載の履歴書を作成した明治元年当時の実家の当主(光則は康載の兄である)で、康載は光則の先代である光庸の六男と解釈しなくてはならない。これと同じ方法で康英の履歴書を解釈すると、松井信濃守康功はこの履歴書が作成された明治1年当時の康英の実家の当主を指し、康英の実父ではないことになる。だから、実父は松平(松井)康済が正しい。因みに松井康功の実父は幕臣三千石阿部遠江守正蔵で、康功の兄には陸奥白河藩主阿部正定や後に老中となった阿部正外などがいる。
参考までに原文の解釈を掲載しておく。
- 原文「分知松井信濃守康功亡養父松井軍次郎康済嫡子」
- 訳 「分家松井康功の養子先の養父である松井康済(故人)の長男」
- 原文「戸田丹波守光則隠居尤香斎光庸六男」
- 訳 「戸田光則の先代当主である光庸の六男」
[編集] 参考文献
- 「華族明細短冊」東京大学史料編纂所蔵
- 「川越市史」3近世編(1983同市)
- 「川越市史」4近代編(1978同市)
- 「川越市史」史料編近世1(1978同市)
- 「復古記」2(1929内外書籍)の587頁にも康英の同内容の履歴が掲載されている。
- 「故従二位松井康英事績調書」
- 「川越市史研究」(1984同市庶務課市史編纂室)所収。
- 「佐用郡誌」(1926同郡役所。1972臨川書店復刊)
- 「佐用町史」(1975同町)
- 石井可汲「棚倉沿革私考」(明治37年完成)巻2「慶長以来棚倉領主沿革」
- 「福島県史料集成」2(1952同書刊行会)所収本の641頁参照。
- 「三百藩藩主人名事典」1(1986新人物往来社)
- 井上隆基「平副領主」
- 「播磨」64(1966西播史談会)所収。
- 長田礼「松井松平家御家譜」(1991長田礼)
- 「武蔵川越松井家譜」東京大学史料編纂所蔵
- 川越市光西寺原蔵・埼玉県立文書館写真複製本蔵「松井家文書」内に「松井家譜」(県史CH46-7-24)が含まれている。異筆で字句の異同もあるが、大体同内様である。但し、廃藩置県以後の明治26年までの事蹟や明治4年以後に出生した子女も書き加えられている。
- 「明細短冊」国立公文書館多聞櫓文書内
- 「江戸幕臣人名事典」4所収「松平石見守」「松平石見守康英」「松平周防守康英」参照。
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