本多正純
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 永禄8年(1565年) | |||
死没 | 寛永14年3月10日(1637年4月5日) | |||
改名 | 千穂、正純 | |||
別名 | 千穂(幼名)、弥八郎(通称) | |||
官位 | 従五位下、上野介 | |||
藩 | 下野小山藩主→下野宇都宮藩主 | |||
墓所 | 秋田県横手市の正平寺 | |||
主君 | 徳川家康→秀忠 | |||
氏族 | 本多氏 | |||
父母 | 父:本多正信 | |||
兄弟 | 正純、政重、忠純 | |||
妻 | 正室:酒井重忠の娘 継室:青木一矩の娘・蓮華院(お梅の方) |
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子 | 正勝 |
本多 正純(ほんだ まさずみ)は、江戸時代前期の老中。下野小山藩主、のちに下野宇都宮藩主となるが、改易された大名である。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 関ヶ原まで
永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれる。当時、正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河を追放されて大和の松永久秀を頼っていたとされるが、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたようである。
父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えた。父と同じく智謀家であったことから家康の信任を得て重用されるようになり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かっている。
[編集] 家康存命中
慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになる。慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には父の正信が、駿府の家康には正純が、それぞれ補佐として従うようになった。そのため、正純の権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いにまでになる。慶長13年(1608年)には3万3000石の大名として取り立てられた。
慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込んだ。(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。
慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。慶長19年(1614年)には政敵であった大久保忠隣を失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでになった(大久保長安事件)。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。
[編集] 秀忠時代
元和2年(1616年)、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。なお、家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3000石の大名となる。
元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野(栃木県)小山藩5万3000石から宇都宮藩15万5000石に加増を受けた。これにより、周囲からさらなる怨みを買うようになる。
[編集] 失脚
元和8年(1622年)8月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純が上使として山形城受取りの為同所に赴いている最中に、鉄砲の秘密鋳造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を秀忠から突きつけられ、所領を召し上げられた。ただし、先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽の内由利郡に5万5000石を与える、という代命を受けた。謀反に身に覚えがない正純はその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠の怒りを買い、本多家は改易され、身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国横手に流罪となった。後に1000石の捨て扶持を与えられている。
この顛末は、正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉加納御前(亀姫)が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。加納殿は正純が宇都宮に栄転したのに伴って格下の下総古河に転封を命じられた奥平忠昌の祖母であり、しかも彼女の娘は、正信・正純の陰謀で改易された大久保忠隣の子大久保忠常の正室であった。正純に憎悪を抱いていたのは想像に難くなく、その線も捨てがたいところである。
以下の歌は、失脚した正純が幽閉された横手・上野台で詠んだものと伝えられる。
- 日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく
寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去した。享年73。
[編集] その後の本多家
配流の際、息子の正勝も同罪として由利郡に流されている。寛永14年(1637年)3月に正純は73歳の生涯を閉じたが、息子の正勝はそれより7年前の寛永7年(1630年)、35歳で死去している。正勝には長男の正好と次男の正之の子息がおり、嫡男右京正好は元和9年(1623年)に江戸で生まれたが、同年の本多家改易により母方の摂津尼崎藩に身を寄せる。その後、寛永12年(1635年)に戸田家の領地替えに伴い美濃大垣に移住する。正好は幕府に祖父・正純と父・正勝の墓参りを願い出るが許されなかったという逸話がある。寛永17年(1640年)、本多家と親戚筋であった高崎藩安藤家に客分として招かれ厚遇されている。
正好は赦免されない本多姓を改め、住んだ上野国高崎和田郷から和田姓を名乗った。明暦3年(1657年)には旗本安藤彦四郎知行地であった武蔵国那珂郡小平村(現埼玉県本庄市児玉町小平)に移り、郷代官を務め(代官和田家)、元禄15年(1702年)に79歳で世を去った。
その後代々、代官職を務め、第7代当主・本多正綱の時に、寄合格待遇となる。第8代当主・本多正滕の時に、同地の安藤家郷士であった木村家が絶家状態で跡目がいなかったことから、名跡ごとこれを相続した。以後、木村姓を称し3代続いて木村正英の時に明治を迎える。
なお、正勝の次男正之は寛文4年(1664年)に赦免され、3000石の旗本として家を再興している。
[編集] 人物・逸話
- 石田三成の身柄を預かったとき、三成に対して、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる。
- 大坂の陣の直後、千姫が本多忠刻に再嫁する事になった。ところが、これに激怒した坂崎直盛が面目を潰されたと屋敷に立て篭もって幕府に抵抗した事件がある。騒ぎが広がるのを恐れた幕閣からは、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通らぬ」と敢然と不可であるを主張した、というエピソードがある。
- 父・正信は権勢を得ると同時に大身になることは身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「3万石以上の知行を受けてはならぬ」と戒めていた。しかし正純はその戒めを守らず、15万石の大身になったが結果的には改易されてしまった。
- 父と同じように異常なほど権勢欲が強かったことから、現在の歴史小説や大河ドラマなどでは、「家康の寵愛におもねる側近」として描かれることが多い。ただし、その場合でも徳川家の忠臣として描かれることは多く、石田三成と同じように周囲から疎まれていた人物と描かれることが多いようである。
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