奥平忠昌
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奥平 忠昌(おくだいら ただまさ、慶長13年(1608年) - 寛文8年2月19日(1668年3月31日))は、江戸時代の大名。父は奥平家昌。母は本多忠勝の2女・もり姫。徳川家康の曾孫。正室は鳥居忠政の娘・桂岳院。子に奥平昌能、内藤信良室、五島盛勝室、立花種明室ら。幼名、千福丸。官位は従四位下、美作守。
慶長19年10月10日(1614年)、父・家昌は病が快癒せず急死。諸侯が大坂の陣への出兵準備に追われていた中での不幸である。同月23日、亡父が命じられていた江戸城の本丸留守居役は、幼い忠昌では務まらぬため免除の下命が出された。翌月11月18日、ようやく家督相続が認められ、下野宇都宮藩10万石の藩主に、わずか7歳で就任する。元服のとき、大叔父・秀忠から一字をもらって忠昌と名乗った。元和2年(1616年)3月、傅役・桑名勝成を従えて駿府まで出向き、病床の曽祖父・家康を見舞うと寝所まで招き入れられ、白鳥鞘の鑓を授けられた。
元和5年(1619年)10月13日、日光東照宮参拝のため将軍秀忠が宇都宮藩に立ち寄った際、生涯3度目の拝謁を賜る。この時、1万石の加増を受けるが、下総古河藩へ11万石(古河が6万石、下妻が2万5千石、小山2万5千石の計11万石)での転封が言い渡された。その後、「宇都宮城釣天井事件」の影響で、元和8年(1622年)8月に宇都宮藩へ11万石で再封される。
明暦3年(1657年)、正月18~19日には明暦の大火の煽りを受けて、日比谷の上屋敷、木挽町の中屋敷が類焼する。
寛文8年2月19日(1668年)、江戸汐留の藩邸で死去、61歳。戒名、玄光院殿海印道堪大居士。父と同じ宇都宮興禅寺へ葬られると、ただ1人の男子・奥平昌能が家督を継いだ。
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