月山富田城の戦い
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月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)とは1542年-1543年・1562年-1565年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現;島根県安来市)を巡って発生した合戦である。この合戦は第一次月山富田城の戦いと第二次月山富田城の戦いに分けることができる。第一次では大内氏と毛利氏の連合軍と尼子氏の戦いとなり、大内氏が滅亡した後の第二次では毛利元就がこの戦いを開始し、尼子氏を滅亡させた。
[編集] 第一次月山富田城の戦い
天文10年(1541年)、尼子晴久率いる尼子軍が毛利氏の本拠である吉田郡山城を3万の兵で攻めたものの、毛利軍の3000の兵と大内軍の援護軍によって撃退された(吉田郡山城の戦いを参照)。この尼子氏による安芸遠征の失敗後、尼子経久が死去し、天文11年1月11日(1542年1月26日)に出雲に向かって大内・毛利両軍が出陣する。大内軍は大内義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、弘中隆包ら1万5000の兵を率いて出兵。毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて出雲へ赴いた。
4月に出雲に侵入したものの、赤穴城の攻略が3ヶ月と長くかかり、10月になって三刀屋峰に本陣を構えた。その後、年を越して月山富田城を望む京羅木山に本陣を移す。3月になって攻防戦が開始され、戦端が開かれたが、大内軍に属していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経が尼子方につき大内方が劣勢になった。大内方は5月7日に撤退にとりかかり、5月25日に山口に帰還した。
この1年4ヶ月にも及ぶ遠征の挙句の敗戦の上、この遠征で養嗣子の大内晴持を失った義隆は以後政治に対する意欲を失ってしまう。この戦いは大内氏衰退の一因となった一方、尼子氏は晴久のもとで一時的に勢力を回復させる結果となった。また、毛利氏は石見国を巡ってこの後も尼子氏と熾烈な争いを続けることとなった。
[編集] 第二次月山富田城の戦い
大内氏が滅亡した後の永禄5年(1562年)、元就は息子の吉川元春、小早川隆景、孫の吉川元長以下1万5000の軍勢で出雲国へ侵攻した。尼子側は前年に晴久が亡くなっており、息子の尼子義久が跡を継いでいた。まず毛利側は「尼子十旗」と呼ばれる支城の一つ、白鹿城を攻めた。白鹿城を守るのは松田誠保と牛尾久清の800の軍勢だった。白鹿城は月山富田城の日本海側の玄関口ともいうべき役割の城で、ここが落ちると尼子側は船で日本海から兵糧を運び込めず、月山富田城が孤立することに毛利側は着目したのである。戦いの最中、1563年毛利隆元が急死した。元就は悲しみを顔に出さず「隆元への追善は尼子氏の撃滅のほかになし」と将兵を諭したので、全軍の士気は奮い立った。尼子側は義久の弟である尼子倫久を白鹿城の救援に送ったものの功を奏さず、10月に城は陥落した。11月になると毛利軍は月山富田城の近くに陣を敷き、持久戦に持ち込んだ。
永禄8年(1565年)旧暦4月、初めて城を攻撃して尼子軍を苦しめ、再び持久戦に持ち込んだ。篭城戦は翌年まで続いた。はじめ、毛利側は城兵の降伏を一切認めなかった。こうすることで、孤立した城内に多くの兵がこもることになり、補給のない中で城の兵糧が底をつくのを待つ作戦であった。そして兵糧が底をつき始めたところで降伏を認めると、尼子方の籠城兵が数十人ずつの一団となって投降するようになった。一方の尼子側は宇山久兼が私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れつつ、奮闘を続けていた。しかし、尼子義久が讒言を信じて宇山久兼を殺してしまうという一件があり、士気を阻喪していった。11月21日尼子氏は降伏。毛利側は尼子義久ら尼子一族の生命を保証し、義久らは安芸国に引き取られ幽閉された。また、この戦いは、毛利輝元と吉川元長の初陣でもあった。
[編集] 戦後の影響
尼子軍は降伏したがそれに不満を持った男がいた。山中幸盛である。幸盛は叔父である立原久綱らとともに1568年尼子氏を再興するために京都で僧籍にあった尼子国久の孫勝久を還俗させて擁立し、但馬国に侵攻。出雲国、因幡国を転戦し、尼子氏再興の志を秘めて山名氏の軍勢にも加わり、山名氏に謀叛して鳥取城に篭った武田高信を討つなどの軍功を立てている。
山名氏を離れた後、尼子勝久らは一時的に尼子氏を再興、出雲の国の殆どを奪還し、1569年には毛利方の天野隆重が守る月山富田城を攻める。しかし堅城である月山富田城を落とすことが出来ず、幸盛は1571年に吉川元春との戦いに敗れて捕らえられた(布部山の戦い)。ところがこのとき、幸盛は赤痢を装って厠に入り浸り、その隙に厠から糞にまみれながらも脱走したといい、勝久とともに再び京都に逃れて織田信長を頼った。
1577年中国を平定すべく、羽柴秀吉が遠征に駆り出されたとき、幸盛は先鋒として播磨国の上月城に入り、尼子再興を目指した。しかし、秀吉は信長から石山本願寺を抑えるよう命令が下り、摂津国に帰ったため上月城は孤立、開城し、尼子勝久以下一門は城兵の助命と引き換えに自害する。毛利氏は幸盛に苦しめられたが、1578年尼子再興軍の崩壊により沈静化することとなった。