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吉田郡山城の戦い - Wikipedia

吉田郡山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉田郡山城の戦い(よしだこおりやまじょうのたたかい)は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)まで安芸国吉田周辺で行われた、毛利元就尼子詮久(後の尼子晴久)との戦い。

目次

[編集] 発端

毛利元就安芸吉田を治める地方の一小領主であり、出雲尼子氏を盟主に仰いでいたが、尼子氏の当主尼子経久らは安芸の有力国人である毛利氏の勢力拡大を喜ばず、毛利氏の取り込みを謀っていた。元就の家督継承問題にも尼子氏の介入があったとされる。
1528年10月、元就は尼子氏と並ぶ中国地方の雄である、周防国大内氏に家臣の井上某を人質として送り、臣従の意思を伝えた。これにより尼子氏からの離反は決定的となり、1537年には毛利元就は長男の少輔太郎を人質として差し出し、周防国大内氏の傘下に加わった。
尼子氏も1537年に尼子経久が隠居し、経久から詮久に家督相続が行われていた為、離反した毛利氏への処遇は行われなかった。
しかし尼子詮久は毛利氏の勢力拡大を危険視し、その征伐と自己の権力を誇示する為に、1539年の重臣会議にて翌年の安芸吉田への遠征を挙行する事を決定した。しかし隠居の尼子経久やその弟である尼子久幸は「毛利氏侮り難し」として遠征に慎重な意見を示すものの、血気にはやる詮久は聞き入れることはなかった、と軍記物では伝わっているものの、後世の創作であり信憑性は極めて薄い。

この安芸遠征には、家督相続した詮久が日和見主義である国人衆からの支持を受けるために出撃したとも推測できる。これは当時寄親・寄子制にて運営されている大名家としては、内外に力を誇示するのは重要なことであった。よって血気にはやったかどうかは別問題でもある。自家の正当性や、国人衆を懐柔する為の侵攻政策等の要素も加わってくる。それに自国の領内統治を円滑にするのにも一番最善の策でもある。また独立性や利益を重視する国人衆を懐柔するのは非常に困難なことであった。事実、この対戦相手となる毛利氏も勢いのある元就の頃は勢力を保っていたものの、嫡孫輝元の代には織田信長の中国攻めを受け押される一方となり、毛利氏に離反する国人が出るなど苦戦を強いられている。これも他の大名家に言えることであり、国人はその時々に応じて優勢な方へと直ぐ立場を変えていた。

[編集] 第一次侵攻(備後路)

1540年天文9年)6月、新宮党尼子国久尼子誠久尼子久幸らは率いる3000騎が偵察を兼ね、備後路から安芸吉田への侵入を図り、赤名から三次を経て備後八幡山城に進出した。ここより毛利血縁である宍戸氏の祝屋城と五龍城を落とし、吉田郡山城に迫る予定であった。しかし宍戸氏は宍戸元源宍戸隆家、深瀬隆兼らが、犬飼平や石見堂の渡しで決死の防戦を行い、尼子軍は可愛川すら渡る事ができず、この方面での侵攻を諦め、撤退した。

[編集] 第二次侵攻(石見路)

同年8月10日、尼子詮久は出雲石見伯耆因幡備前備中備後美作安芸からの兵、総勢30000を率いて月山富田城を出陣した。今回は石見路を通り、赤名から口羽・川根・河井を経由し、9月4日には吉田郡山城へ4kmの風越山に本陣を敷き、湯原宗綱3000余を左翼、高尾久友、黒正久澄、吉川興経を右翼に配置、相合や白豆峠、会下谷方面にも守備兵を置き、側背の警戒も厳にして吉田郡山城への侵攻に備えた。
これに対して毛利軍は周防の大内氏に援軍を要請し、元就自身は一族郎党を引き連れて吉田郡山城に籠城。宍戸元源は五龍城にて籠城、宍戸隆家は郡山城へと入り、福原広俊鈴尾城へ籠城、大内側であった天野興定も吉田郡山城に入城。小早川興景杉隆相らは坂、豊島へ駐留して急に備えた。
吉田郡山城には精鋭2400人と農民・商人、女子供ら5600人、合計8000人程度が入り、尼子氏の攻撃に備えた。

[編集] 鎗分・太田口の戦い

9月5日、尼子方の一部が民家に放火したが、毛利方は応戦しなかった。翌6日、早朝の霧に紛れ、尼子軍4500が町屋敷に放火し、郡山城に攻撃を掛けた。しかし毛利軍の激しい抵抗に遭い、攻撃は失敗に終わった。 9月12日、尼子軍は軍を数部隊に分け、郡山城下に進出して放火した。これに対して毛利元就は渡辺通や井上元景に兵と策を授け出撃させた。足軽30人程度を突進させ、すぐに退却させると元就の目論見通りに敗走兵を追って尼子軍が突出してきた。そこへ鎗分に潜ませていた毛利軍の伏兵が一気に襲い掛かり、尼子軍の高橋元綱、本城信濃守らは討死した。これを「鎗分・太田口の戦い」と言う。
この日は広修寺縄手や祗園縄手でも激戦が繰り広げられたが、尼子軍は敗退した。

[編集] 尼子軍の進出と池の内の戦い

9月23日、尼子軍は本陣を青光山に進出させ、湯原宗綱湯惟宗らは青山、高尾久友・黒正久澄・吉川興経は光井口に陣取った。元就はこの期を逃さず、手薄となった風越山の陣を急襲し、焼き払った。
9月26日、尼子軍の湯原宗綱は1500の兵を率いて、坂に進出し、この地に駐留していた小早川興景を攻撃した。近くの大内氏家臣・杉隆相は尼子氏の襲撃に備え、反撃を開始した。
吉田郡山城からも粟屋元良らが出撃し、湯原軍は挟撃される形となり壊滅。湯原宗綱は深田に馬を乗り入れて進退に窮し、ついに討死した。これを「池の内の戦い」と言う。

[編集] 青山土取場の戦い

10月11日、尼子誠久らは大挙して郡山城下に押し寄せ、徐々に城に迫った。これに対して毛利元就は積極的な攻勢を加える指示を下した。家臣は兵数の不利を訴えたが、元就は不意討ちなら勝てると踏んでおり、直ちに軍を三手に分けた。
第一軍は渡辺通国司元相、児玉就光ら率いる500の兵で、伏兵として伏せさせた。第二軍は桂元澄、粟屋元真率いる200人で、こちらも伏兵として伏せさせた。第三軍は元就自身が率いて正面より尼子軍に当たり、敵を引きつける役割であった。
元就率いる軍の先鋒は赤川元助で、これに元就が続く配置であった。それ対して尼子軍の三沢為幸や亀井秀綱米原綱寛らが当たり激戦となった。
両軍とも疲労が限界となった時、そこに伏兵の渡辺・国司・児玉軍が左翼、桂・粟屋軍が右翼から突撃を開始し、尼子軍は大混乱となり壊走した。毛利軍は追撃をかけ、尼子詮久の本陣である青山の麓まで進撃し、青山の外柵を破壊し、内部で尼子軍と死闘を繰り広げた。結局尼子軍は三沢為幸らが討死し、大きな被害を被った。これを青山土取場の戦いという。

[編集] 宮崎長尾の戦い

この後は11月に武田信実らと小合戦を行うなど小競り合いはあったものの、戦況に影響を与えるような合戦は発生しなかった。しかし11月26日、ついに陶隆房率いる大内軍10000が周防国山口を出発、途中厳島神社にて戦勝祈願を行い、海路で安芸国海田に上陸した。12月3日には吉田に到着し、両軍の状況が見渡せる住吉山に陣を敷いた。大内軍は軍旗を高く掲げ、太鼓を鳴らす等の示威行動に出た為、毛利軍の士気は上昇した。それに対して尼子軍は連戦連敗で、疲労も酷く、一気に戦意を阻喪した。元就は陶隆房に謝意を述べ丁重にもてなし、年明けを待って尼子軍に総攻撃をかける事で一致した。
12月11日、翌1541年(天文10年)1月3日、6日には毛利・大内軍は尼子軍を襲撃する等の小規模の合戦が発生しているが、大きな戦闘は1月13日に発生した。(戦闘に先立つ11日に大内軍は住吉山の陣を撤去し、天神山に移動している。)
毛利元就は、まず宮崎長尾の陣に居る高尾久友・黒正久澄・吉川興経を襲撃する事を計画し、12日に大内軍にはその他の尼子軍の牽制に当たるように使者・児玉就忠をもって要請した。隆房はこれを了承し、末富志摩守を派遣して了承の旨を伝えた。元就は志摩守に策を授けて帰陣させた。
翌13日、ついに毛利軍3000は城外の小早川興景宍戸元源と呼応して、宮崎長尾の陣に総攻撃を開始した。この時元就次男の少輔次郎が初陣を果たしている。高尾久友は2000の兵で必死に防戦するも、久友は討死し軍も敗走した。黒正久澄も1500の兵を率いて抵抗するが壊滅し逃亡した。しかし吉川興経は精鋭1000の手勢で奮戦し、毛利軍に猛反撃を加えた。元就は損害が増える事をよしとせず、多くの戦果をあげた事に満足して撤退した。
陶隆房率いる大内軍は、宮崎長尾への尼子軍の援護が無い事を知ると、天神山の陣を出て尼子詮久の本陣である青山への襲撃を企てた。青山正面の山麓には多くの兵が居る為、大内軍は一度南下し、その後反転して青山の南側から尼子詮久の陣を後方より奇襲したのである。尼子本陣は大混乱に陥るが、本陣の危機に対して尼子久幸は500の兵を率いて防戦に当たり、青山の中腹にて尼子・大内両軍は激戦を繰り広げた。物見に来ていた毛利家臣の中原善左衛門が尼子久幸へ弓を放ち、それを額に受けた久幸は落馬し討死した。尼子久幸の決死の防戦により時間を稼いでいる間に尼子軍の援軍が到着し、お互い多数の死傷者を出して退却した。

[編集] 撤退

この夜、尼子詮久は諸将を集めて軍議を行い、戦果を上げられず、兵糧の心配もある為、撤退することで一致。尼子軍は夜陰に乗じて北方へ撤退を開始した。尼子軍の撤退に気付いた毛利・大内軍は追撃したものの積雪に阻まれ、その目的を達するには至らなかった。

尼子側は大軍になりすぎたため指揮系統が混乱しやすく、毛利側の士気が旺盛だったのも敗退した要因であった。 元々尼子側は大軍を率いていたものの、その多くは国人衆であり、決して直接指揮して動かせる軍隊では無かった。このように尼子氏は長期戦に耐えられるような軍隊構造ではなく、地元で戦う毛利氏にしてみれば非常に有利に戦いを展開出来た。

[編集] 関連項目


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