尼子久幸
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尼子 久幸(あまご ひさゆき、文明3年(1473年) - 天文10年1月13日(1541年2月8日))は出雲国の戦国武将。出雲国守護代尼子清定の次男。兄に尼子経久。息子に尼子氏久。諱は久幸。官位は下野守。別名・義勝。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 文明3年(1473年) | |||
死没 | 天文10年(1541年)1月13日 | |||
別名 | 義勝・孫四郎・源五郎?・臆病野州・尼子比丘尼 | |||
墓所 | 城安寺(島根県安来市) | |||
氏族 | 尼子氏 | |||
父母 | 父、尼子清定・母、真木氏の娘 | |||
兄弟 | 兄、尼子経久 | |||
妻 | 武田元繁の娘 | |||
子 | 尼子氏久? |
目次 |
[編集] 経歴
明確な証拠はないものの、息子・氏久の生涯を鑑みると久幸も新宮党に属していたと思われる。
永正15年(1518年)、兄・経久の嫡子である尼子政久が討死し、あまりの悲しみに経久は隠居を考えて優秀な弟である久幸に家督を譲ろうとしたと伝わっているものの、その政久嫡子である詮久に家督を継承する形で落ち着いた。
天文9年(1540年)、大内氏との対立が激しくなり、祖父経久より家督相続した詮久は大友氏等の反大内勢力と結託し、大内義隆への圧力を強める。その一環に尼子から大内へと寝返った安芸国人の毛利元就を安芸守護武田氏の要請も受け入れ討伐を決定した。これに久幸も同行している。
初めは尼子側に形勢は有利だったものの、その多くが尼子の直接配下に居る軍隊ではなく、指揮系統は混乱しやすく敗走を重ね、補給路も確保出来ないまま長期戦へと縺れた。そして翌年の1月、宮崎長尾の戦いにて、大内氏陶隆房が率いる部隊の尼子本陣奇襲を受け、久幸はこれに防戦中に戦死した。
大内氏からの援兵や長期戦の為からくる配下国人衆に厭戦気分が見え始めた尼子側は兵糧・士気等の心配、また今まで吉田郡山城を攻めあぐねた結果として撤退を決意。こうして尼子氏は多くの損害を出して出雲へと敗走した。
久幸の亡骸は毛利氏によって安芸吉田に埋葬された。現在も碑文とともに尼子下野守義勝の墓と供養塔が残っている。月山富田城近隣の城安寺(島根県安来市)にも墓石が残っている。
[編集] 軍記から見る久幸の最期
兄である経久の隠居後、経久の孫である尼子詮久後の晴久が尼子氏当主となった。詮久は毛利元就が尼子氏を離反し大内氏に従属したことに激怒。1540年に毛利氏本拠である安芸国吉田郡山城への遠征を決定した。久幸は経久とともに無謀な計画に反対したが、血気にはやる詮久は聞く耳など持たず、久幸を「臆病野州」と罵った。結局遠征は実行されることとなる。
久幸は胸の内に暗いものを持ちながらも夏の第一次遠征に従軍したが宍戸元源により道を塞がれ撤退。ついで秋から冬にかけての第二次遠征にも従軍した。戦況は尼子方不利のまま推移し、陶隆房率いる大内氏の援軍が毛利氏救援に到着するに及び、その不利は決定的なものとなった。
密かに撤退を開始したが、名将である毛利元就や陶隆房がこれを見過ごす筈もなく、追撃を開始。尼子方には無残な撤退戦となった。撤退の混乱の中、大内・毛利勢の猛攻が尼子詮久の身辺に及ぶにつき、久幸は「臆病野州の最期を見よ」と敵中に単身突撃し、数十人討ち取ったが、毛利家武将中原善左衛門の手にかかり見事な最期を遂げた。
ただ、上記はあくまで軍記物の記述であることを考慮しなければならない。
[編集] 人物
- 政久が死んだとき経久は久幸に家督を譲ろうとしたとされている。やはり久幸が政治や軍事面などで、優れていたからであるとされている。だがこれも軍記物の記述でしか散見出来ないことから、本当に家督を久幸に譲ろうとしたかは怪しいところである。
- これは当時の尼子氏を伝える軍記物の殆どが毛利氏により編纂されたものであり、毛利氏が最も苦戦させられた経久・晴久を、一方は優れた武将とし、一方は愚将と印象操作することにより自家が中国地方の大大名として君臨したことを正統化する為であったとも考えられる為である。久幸の記述もこういった毛利氏の思惑により創られたものであり、本当かどうかは当時の資料が乏しく伺うことは余りできない。
[編集] 幼名について
彼の幼名は一応孫四郎ということになっているが、ある一部の資料には、源五郎となっている。久幸幼少の頃は不明点が多い。