尼子国久
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 明応元年(1492年) | |||
死没 | 天文23年11月1日(1554年11月25日) | |||
別名 | 孫四郎(幼名) | |||
戒名 | 松厳良吟居士 | |||
官位 | 刑部少輔。紀伊守 | |||
氏族 | 尼子氏 | |||
父母 | 父:尼子経久 | |||
兄弟 | 兄:尼子政久、弟:塩冶興久 | |||
子 | 尼子誠久、尼子豊久、尼子敬久、 娘(尼子晴久室) |
尼子 国久(あまご くにひさ)は、戦国時代の武将。
[編集] 生涯
明応元年(1492年)、出雲の戦国大名・尼子経久の次男として生まれる。
大永4年(1524年)に起きた、大永の五月崩れでは伯耆にある諸城を次々に攻城し、これを陥落させている。尾高城・不動ヶ城・羽衣石城等の伯耆国人の城は次々に落とされ、羽衣石城城主、南条宗勝はこれにより山名氏を頼り逃亡した。
天文9年(1540年)、主君であり甥にあたる晴久から3000を率いて備後宍戸氏を攻撃するように命ぜられる。このとき晴久は大内氏への牽制も兼ね、安芸国人毛利氏を討伐を企画、その偵察を兼ねて国久は備後へ遠征した。備後から江の川を渡河して吉田郡山城へと進軍する道を開こうとするも、宍戸氏の反撃にあい、失敗。出雲へと一時撤退した。
晴久はこれにより石見路から30000騎を率いて吉田郡山城へと進軍したが敗北。撤退した。後に大内義隆が出雲へと侵入するも、国久は新宮党率いてこれを撃破している。その後は備後・伯耆等の諸国へ遠征しており、尼子氏の先頭に立って戦っている。
国久は月山富田城の東北にある新宮谷にあったことから名づけられた戦闘集団・新宮党の頭領であった。父・経久や甥の晴久を助けて勢力拡大に貢献し、多大な武功を挙げた。このため、父から晴久の後見人に指名されている。しかし父の死後、後を継いだ甥(かつ娘婿)の晴久とは仲が悪く、次第に対立を深めていった。新宮党は出雲平野の大半を直轄地としており、これは尼子宗家、つまりは尼子晴久をも凌ぐ勢力を有していた。この為から娘婿である晴久との関係は段々と悪化したものと思われる。また、重臣達との間でも衝突することも多かった。その後、晴久は正室である国久の娘が死去したため、これを切っ掛けに親族としての血縁関係を断ち、粛清に踏み切ったと推測される。
天文23年(1554年)に甥の尼子晴久によって一族と共に誅殺された。享年63。
この尼子国久の死は、尼子氏と毛利氏の軍事力を完全に逆転するものとなるばかりではなく、尼子氏衰退の遠因ともなったと通説では言われてきた。しかし、新宮党が崩壊した後も晴久は軍事行動に出ているので、実際は新宮党が滅んだからといって尼子氏が衰退したわけではない。
[編集] 人物
- 父・経久からは、「文に疎く政道に誤りがあるかも知れぬが、軍務にかけては鬼神のごとき」と言われるほどの武勇を備えていた猛将であった(雲陽軍実記)。この記述を見るにして、周囲からは軍事を担当する人物と認識されていたようである。
- 晴久によって粛清された理由については、その武勇をかさに着て横柄で傲慢な態度も少なくなかったため、しばしば謀反を疑われた。そのため、晴久自らの意思で粛清したと言われる。毛利氏の軍記では毛利元就の謀略としている。