塩冶興久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 明応6年(1497年) | |||
死没 | 天文3年(1534年) | |||
別名 | 彦四郎(幼名) | |||
戒名 | 元法刃大居士 | |||
官位 | 宮内大輔 | |||
氏族 | 尼子氏 | |||
父母 | 父:尼子経久 | |||
兄弟 | 兄:尼子政久・尼子国久 | |||
子 | 尼子清久 |
塩冶 興久(えんや おきひさ、明応6年(1497年) - 天文3年(1534年))は、尼子氏当主・尼子経久の三男。塩冶興久の「興」はその時代背景から考えるに「大内義興」から偏諱を受けたとも考えられる。
[編集] 経歴
武勇に優れ、父や兄の政久・国久とともに各地転戦し、恩賞として出雲国塩冶3000貫の所領を得た。これにより塩冶姓を名乗った。しかし、3000貫の所領では満足せず、尼子氏重臣の亀井秀綱を通じて所領増加を目論むが拒絶され、亀井秀綱に対して疑念を抱き、ついには1532年、父の経久に対しても反乱を起こすこととなる。
経久は激怒し、すぐさま弟である尼子久幸(義勝)率いる討伐軍を差し向けた。興久は討伐軍に敗北を喫し、塩冶の地を棄てて妻の実家である備後国山内氏を頼って逃亡した。そして山内氏の下で庇護を受けていたが、先行きの不安にさいなまれ、1534年に自刃した。
その首は尼子経久に送られたが、その首を見た経久は自分の行いを悔いて嘆き悲しみ、病床に伏してしまった。嫡子の政久を失っていた尼子経久にとって、可愛い息子である興久を叛乱に追い込んで、結果的には殺してしまった自責の念は深いものであったと思われる。
興久の反乱については所領の問題が原因といわれているが、尼子氏傍流の一門と、重臣との間の対立も原因といわれている。
また、乱は尼子宗家と分家・出雲国人の対立関係が原因にあると推測される。興久はこれら反尼子宗家連合と協力したか、或いは新たな支配者として擁立されて反乱を起こしたと思われる。このとき興久と共に共闘したのは、三沢氏・真木氏・但馬山名氏などである。
この乱の前年である享禄4年(1531年)に、三沢氏が経久により討伐されていることから、三沢氏も興久に関与したと思われる。これにより、興久自身の属する塩冶氏も、経久の圧迫を感じ、追い詰められて挙兵に踏み切ったとも推測出来る。つまりは興久の短慮とされる性格だけの問題ではなく、尼子氏の運営体系に問題があったとされる、一番の例である。