弘中隆包
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 大永元年(1521年) | |||
死没 | 弘治元年(1555年)10月3日 | |||
別名 | 三河守 | |||
主君 | 大内義興→大内義隆→大内義長 | |||
官位 | 中務丞。三河守 | |||
氏族 | 弘中氏 | |||
父母 | 父:弘中興兼 | |||
兄弟 | 弘中方明 | |||
子 | 弘中隆助、他 |
弘中 隆包(ひろなか たかかね)は、戦国時代の武将。戦国大名大内氏の家臣。正式な名は「隆包」だが、後世ではなぜか「隆兼」と書く者が多い。弘中興兼の嫡男。子に弘中隆助(隆守とも)。三河守、中務丞。
弘中氏は清和源氏の流れを組み、壇ノ浦合戦後から代々岩国の領主を務めていた家系である。室町時代より、周防の大名・大内家の中心を支える氏族となり、奉行職などを代々務めた。
隆包は大内義興・大内義隆の二代に属し、智勇兼備の名将として名声高く若くして数多くの武勲を上げ、その功績から岩国だけでなく安芸国の守護代を命じられ安芸国西条槌山城の城主として活躍した。吉田郡山城包囲戦で援護した毛利元就とは、包囲戦以降も公私共に親交が深く、大内義隆軍の月山富田城遠征の際には、共に意見を分かち合うほどの仲であった。また、山口での人質時代に同じ大内義隆の一字を貰い受けた毛利隆元とは親しい間柄であったという。
1551年、陶晴賢が謀反を起こし大内義長を擁立した際には謀反には反対論を通したが、長年歴代の大内家への忠義に順じて義長旗下に属した。1555年、厳島合戦の直前、晴賢が厳島に三万の大軍を移そうとしていることを、元就の謀略であると晴賢に諫言したが、血気にはやる晴賢は聞き入れなかった。またこの諫言は当時の陶配下では共通の認識であり、陶夫人すらも同じく厳島へ渡る事の非を説いたという。その際に元就の姦計により、毛利軍にとって脅威であった大内軍の勇将・江良房栄と隆包に謀反の疑いがかかり、晴賢は隆包に身の潔白を示すために江良を殺害させた。その後は隆包が再三諌めても兵力に驕る晴賢は聞かず、ついに臆病者とされた隆包は、実弟の弘中方明を岩国に残し、嫡子の弘中隆助と共に厳島に渡海した。
隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は一夜にして壊滅した。大混乱に陥った大内軍の中で唯一陣を保全した隆包は、総大将の陶晴賢を逃がし、自らは吉川元春らの大軍勢に立ち向かった。やがて総大将の晴賢は自刃したが、弘中隆包軍だけは百名足らずで天険の駒ヶ林に残り、孤軍奮戦した。三日間の激闘の末、最後は吉川元春軍に囲まれて遂に討死した。
毛利元就は弘中隆包の智勇と忠節を深く悼んだ。毛利家で登用し、また保護するなどして弘中の縁者を特に厚く遇した。そのため、安芸や周防一帯では弘中家の縁の者が住職を勤める寺院が数多くあった。
自らの死を知りながら忠義のために渡海した弘中隆包の悲劇は、西国の悲運譚として講釈等で語り継がれている。