日産・バイオレット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「バイオレット」 (VIOLET) は、日産自動車が生産していた小型乗用車。車名の「バイオレット」は英語で「スミレ」の意味である。
目次 |
[編集] 概要
1971年8月、ブルーバードは、610型ブルーバードUとしてフルモデルチェンジされたが、先代の510型ブルーバードよりも車格や価格面で上級移行したために、販売政策上、先代の510型ブルーバードは「幸せの1400」のCMキャッチコピーで、1400ccと1600ccの4ドアセダンと2ドアセダンの廉価グレードのみに車種整理され、610型ブルーバードUと共に1972年12月まで併売されていたが、廉価グレードのみに車種整理されて併売されていた510型ブルーバードの後継車種として、1973年、サニーとブルーバードUの中間クラスを担う新規車種としてバイオレットが発売された。
[編集] 歴史
[編集] 初代 710/711型(1973年-1977年)
|
1973年に新発売。ボディタイプは当初4ドアセダン、2ドアセダン、2ドアハードトップの3種類。4ドアセダンはその後、ノッチバックスタイルへビッグマイナーチェンジを行う。のちに5ドアのライトバンが追加された。
510型が直線的でクリーンな外観だったのに対し、710型バイオレットは複雑な曲面で構成されたファストバックスタイルだったため人気は低迷。ブルーバード譲りのスポーツグレード・SSS(スリーエス)がラリーで活躍したが販売台数の伸びにはつながらなかった。
なお、510型ブルーバードの実質的な後継車種として発売された、710型バイオレットの4ドアセダン(5人乗り・3速コラム・前席ベンチシート、L16型1600ccLPG)にはタクシー仕様車が設定されていた。(なお、車格や価格面で上級クラスへ移行した610型ブルーバードUにはタクシー仕様車が設定されていなかった)後にタクシー仕様車のエンジンは、昭和50・51年排ガス規制に絡んでL18型1800ccLPG(NAPS)に変更されている。1976年7月に、810型ブルーバードにタクシー仕様車の設定が復活された後も1977年4月頃まで生産・販売が継続されていた。
サスペンションは、前輪にはマックファーソンストラットコイル独立懸架が全車に採用され、後輪には上級グレードにはセミトレーリングアームコイル独立懸架が採用され、その他のグレードにはリーフリジット固定懸架が採用されていた。
- 4ドアセダンがノッチバックスタイルに変更(理由はタクシーユーザーの後方視界を向上するため)、型式呼称も711型に。
- 1600ccが51年排ガス規制に適合(同年5月には1400ccも51年規制に適合)。
- 2ドアセダンは廃止。
- 1977年 生産終了。A10型にバトンタッチ。
[編集] 2代目 A10/11型(1977年-1981年)
|
1977年5月20日、モデルチェンジでA10型が登場。ブルーバードから独立し独自の形式名が与えられた。
デビュー時のボディタイプは4ドアセダンと、「オープンバック」と称するハッチバッククーペ、そしてライトバンの3種類。その後1980年には姉妹車のスタンザ・リゾートに準じた5ドアハッチバックを追加している。 サスペンションは、前輪は先代モデルと同じマックファーソンストラットコイル後輪は、全車種4リンクコイルのリジットであった。 セダンは先代710型のボディデザインの不評を受け、510型ブルーバードのようなボクシーで機能的なスタイルに戻っている。
2代目バイオレット登場と同時に、スポーティ志向で若者向けの「オースター」が、その3ヵ月後の8月には、ラグジュアリー志向で「ミニ・セドリック」と呼ばれた「スタンザ」がそれぞれ姉妹車として登場。バイオレットはよりファミリーカーとしての色合いを強めるが、910型ブルーバード登場後のモデル後半は、販売に苦戦する。
- 1977年5月 モデルチェンジでA10型が登場。
- 1978年5月 53年排出ガス規制適合でE-A11/PA11型へ移行。
- 1978年9月 スポーティ仕様の「1600GX/GX-EL」を追加。
- 1979年6月 マイナーチェンジによりヘッドライトが丸型4灯から角型4灯に変更。
- 1981年6月 バイオレットリベルタへのフルモデルチェンジに伴い、販売終了。
ダットサン510(後期型) |
ダットサン510(後期型) |
[編集] 3代目 T11型(1981年-1982年)
|
詳細は日産・バイオレットリベルタを参照
- 1981年6月、フルモデルチェンジ。
- 3代目となったバイオレットは、前輪駆動化され「バイオレットリベルタ」として発売。
- フルホイールキャップの未設定(アルミはオプション設定あり)、プロテクションモールが上級モデルにしかつかないなど、中級以下のグレードでは安手な印象だった(オースター/スタンザの後期型では改善)。
- 販売不振のため1982年6月で製造終了(受注終了)。
- 同時にリベルタビラ発売。バイオレットリベルタはしばらく併売(在庫販売)した後、販売終了。実質販売期間はおよそ1年間だった。
[編集] モータースポーツ
[編集] 初代 710/711型
- 1974年 マレーシアの「セランゴールグランプリ」にて「バイオレットターボ」が総合優勝を飾る。
- 1977年 第12回サザンクロスラリーに直列4気筒DOHC・16バルブの競技用エンジン、LZ18型を搭載する2ドアハードトップが参戦、総合優勝を飾る。この車両は現在、日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
[編集] 2代目 A10/A11型
A10/A11型は日産のWRC参戦の主力マシンとなり、1979年~1982年の「サファリラリーで4大会連続総合優勝」という快挙を成し遂げた(ちなみに、1979年と1980年は2バルブヘッドエンジン搭載のグループ2マシン、1981年と1982年は4バルブヘッドエンジン搭載のグループ4マシンでの参戦)。また、この4連覇は全て元FIA評議委員長でケニア在住の故・シェカー・メッタ (Shekhar Mehta) が日産ワークス時代にドライブしたもので、WRC史上初の「同一ドライバーで同一イベント4連覇」という記録を打ち立てている。
国内ではスーパーシルエットレースに参戦するなど、強烈なスポーツイメージも兼ね備えていた。
- 1979年 第27回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る。
- 1979年 富士スーパーシルエットレースに海外ラリー競技用エンジンLZ20B型にターボチャージャーを装着したLZ20B/T型エンジンを搭載した「バイオレットターボ」が参戦。ドライバーは柳田春人が勤めた。
- 1979年3月 富士300キロスピードレース 10位
- 1979年5月 富士グラン250キロレース 7位
- 1979年9月 富士インター200マイルレース 7位
- 1979年10月 富士マスターズ250キロレース 優勝
- 1980年 5ドアハッチバック(1600ccのみ)・女性仕様1400ファンシーGL(ATのみ、セダン・オープンバック)追加。
- 1980年 第28回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る(2連覇目)。
- 1980年 前年に引き続き、富士スーパーシルエットレースに「バイオレットターボ」が参戦。ドライバーは柳田春人が勤めた。
- 1980年3月 富士300kmスピードレース GTIIクラス 優勝
- 1980年9月 富士インター200マイルレース GTIIクラス 優勝
- 1980年10月 富士マスターズ250kmレース GTIIクラス 優勝
- 1981年 第29回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る(3連覇目)。
- 1982年 第30回サファリラリーに参戦。総合優勝を飾る(4連覇目)。
- この年は後継ラリーマシンとしてS110型シルビアベースの新型グループ4マシンが用意されていたが、信頼性などの問題を抱えていたため、サファリラリー4連覇目が掛かっていたシェカー・メッタは既に生産終了していた前年型のPA10型グループ4マシンを選択した。これを快く思わなかった日産はワークス・バックアップを拒否。このため、メッタはプライベーターとして参戦することになってしまった。
- 参戦したメッタのマシンは、前年までの日産トリコロールカラーではなく、白いボディにマールボロ・レッドがペイントされていた。
- 結果として、S110型シルビアベースの新型マシンは信頼性不足によるマシントラブルによって徐々に遅れ、最高位は3位。対するメッタのバイオレットは総合優勝し、見事4連覇を達成した。メーカーのプロモーションではなく、勝負を優先したメッタはラリー史に名を残すことになったが、この一件以降、日産とのワークス契約がかわされることは残念ながらなかった。
- PA10型のサファリラリー歴代優勝マシンは現在、メッタのマールボロ・カラーマシンも含めて全てが日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
[編集] CMキャラクター
- 藤岡弘(初代、2代目)
日産自動車提供番組の『特捜最前線』で、桜井哲夫刑事役の藤岡弘がバイオレットのCMキャラクターとして起用され、『特捜最前線』で共に共演していた神代恭介警視正役の二谷英明も、セドリックのCMキャラクターに起用されていた。バイオレット、セドリックと共に『特捜最前線』の劇用車として登場していた。