山城谷村
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山城谷村(やましろだにそん)は、徳島県の北部最西端、吉野川の中流域西岸に位置していた村。三傍示山や塩塚高原で知られる。 1956年9月30日、隣接していた三好郡三名村と対等合併して山城町になった。 さらに、現在は三好市になっている。
目次 |
[編集] 地理
- 山: 塩塚峰、三傍示山など
- 河川: 吉野川、銅山川、白川谷川、黒川谷川、相川谷川、柴川谷川など
[編集] 隣接している自治体
廃村時の隣接自治体。
[編集] 歴史
- 12世紀後半の屋島の合戦に敗れた平家の落人伝説や阿波山岳武士の伝説が残る。
- 1612年、修行僧の筑後坊が長崎から山城谷へタバコの種を持ち帰って蒔いた。これが徳島産葉タバコ(阿波葉)の起源とされ、かつては近隣町村と共にタバコの一大生産地であった。
- 17世紀前半、白川谷川と小歩危以北の街道(現・徳島県道271号粟山殿野線と国道32号の一部)が土佐藩の初期の参勤交代道として利用されていた。
- 1841年、山城谷の百姓631人が伊予国今治藩へ逃亡し、同藩主に不満を訴えた(山城谷一揆)。これをきっかけに騒動が加茂山・祖谷山・井内谷・東山・太刀野・郡里などへ広がり、「上郡一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆となった。
[編集] 沿革
- 江戸時代には、地名の後に、地勢と職を表す字を加えて、自治単位の名称としていた。当時は、地名の「山城」に、谷が多い地勢と農民が多いことを理由に「谷」を加えて山城谷(やましろだに)と呼ばれていた。
- 明治の町村制施行時に、「山城谷」を地名として解釈し、山城谷村となった。
- 昭和31年9月、南隣の三名村と対等合併して町制施行・廃村。これを機に、自治単位の重複を除き、山城町とした。
[編集] 地名の由来
いつ頃から「山城」と呼ばれていたのかは不明である。「山城」の由来は諸説ある。
- 地勢が山城国に類似していることから。 - 山城国と同じ地名がある。
- 山を背にしている地勢から「山背(やましろ)」となり、後に「山城」に転じた。 - 山背と表記している文献もある。
- 山に田尾城があったことから。 - 近隣にも山城が沢山あったことを考慮すれば、やや不自然である。