大阪市立南恩加島小学校
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過去の名称 | 大阪市南恩加島尋常小学校 大阪市南恩加島国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 大阪市 |
併合学校 | 大阪市港南国民学校 |
校訓 | よく考えねばり強くやりぬく子ども 思いやりがあり助け合う子ども からだと心をきたえる子ども |
設立年月日 | 1924年11月10日 |
創立記念日 | 11月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒551-0021 |
大阪市大正区南恩加島3丁目6番11号 | |
電話番号 | 06-6551-0047 |
外部リンク | 公式サイト未開設 |
大阪市立南恩加島小学校(おおさかしりつ みなみおかじましょうがっこう)は、大阪府大阪市大正区にある公立小学校。
校区に沖縄県出身者が多く住んでいるという地域の特徴から、地域学習の一環として運動会や地域の祭り等でエイサーを実施している。また太平洋戦争の際、集団疎開先の宿舎火災により児童16人が死亡したことから、この事件を通した平和学習にも力を入れている。
目次 |
[編集] 沿革
- 1924年11月10日 - 大阪市南恩加島尋常小学校として創立。泉尾第一尋常小学校(現・大阪市立泉尾東小学校)と鶴町尋常小学校(現・大阪市立鶴町小学校)の校区を再編し、2校から分離開校。
- 1930年9月1日 - 校区の一部を、新設の港南尋常小学校(戦災で廃校・現在の大阪市立大正西中学校の場所)に分離。
- 1934年9月29日 - 室戸台風で校舎被災。
- 1941年4月1日 - 国民学校令により、大阪市南恩加島国民学校と改称。
- 1944年9月 - 徳島県美馬郡貞光町(現・つるぎ町)に集団疎開。
- 1945年1月29日 - 集団疎開の宿舎で火災。逃げ遅れた3年生男子児童16名が死亡。
- 1946年 - 戦災被災により港南国民学校を統合。
- 1947年4月1日 - 学制改革により、大阪市立南恩加島小学校と改称。
- 1950年9月3日 - ジェーン台風で校舎に浸水被害。
- 1954年4月24日 - 交通安全優秀校として、大阪府警察から表彰を受ける。
- 1960年4月1日 - 養護学級を新設。
- 1965年4月1日 - 大阪市教育委員会から、道徳教育推進校に指定される。
- 1967年3月1日 - 学校安全管理と指導の成績が優秀として、大阪府教育委員会から表彰を受ける。
- 1984年3月29日 - 校地拡張。第二運動場を設置。
- 2003年1月29日 - 校内に「十六地蔵」の祈念モニュメントを設置。
[編集] 十六地蔵
1945年1月29日夜、集団疎開で3年生男子児童の宿舎となっていた、徳島県美馬郡貞光町(現・つるぎ町)の真光寺で原因不明の火災が発生し、児童29人のうち16人が逃げ遅れて死亡した[1][2]。児童らの供養のため、貞光町の町民や徳島県内の学校関係者が募金を出し合い、真光寺境内に「十六地蔵尊」を1946年に設置した。現地では毎年、命日に法要が営まれている。
徳島県在住の児童文学作家がこの話を書籍『十六地蔵物語-戦争で犠牲になった子どもたち-』(著・原田一美、画・福田庄助、文研出版、1988年、ISBN 4-580-81477-0)にまとめた。また大阪国際平和センター(ピースおおさか)の企画で、アニメ『十六地蔵物語』が製作されている。
また学校でも、火災のあった日に全校集会をおこなったり、現地でおこなわれている法要にあわせて千羽鶴を送ったりするなどの取り組みをおこなっている。2003年には、当時の児童の発案で祈念モニュメントが校内に設置されている。
[編集] 通学区域
- 大阪市大正区
- 南恩加島1-7丁目(5丁目の一部を除く)。
- 船町1-2丁目
- 平尾1丁目の一部。
- 卒業生は基本的に大阪市立大正西中学校へ進学する。
[編集] 交通
- 大阪市営バス 大運橋通バス停。
- 大阪環状線・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線 大正駅 南へ約3.5km。