医原病
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医原病(いげんびょう、英: iatrogenesis または iatrogenic disease)という言葉は以下のような意味で用いられる。
- 医療行為が原因で生ずる疾患のこと。「医源病」「医原性疾患」も同義。[1](医学事典などに掲載されている定義。狭義の医原病)
- 1.臨床的医原病、2.社会的医原病、3.文化的医原病の三つの段階を経て、現代社会に生きる我々を侵食する病のこと[2](社会学者イリッチの提唱した概念。広義の医原病)
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[編集] 概要
古代ギリシャの時代より、医者が患者を害する可能性は知られていた。19世紀の西洋では医師が、細菌のことや消毒のことも知らず、細菌に汚染された手で患者や妊婦に触れたので、患者や妊婦への細菌の伝播が起こり、患者や妊婦は高い確率で死亡していた。現代の日本でも様々な医原病が起きている。(→#歴史)
医療は他の様々な技術同様に、常に発展途上で不完全であり、医療関係者の意図にかかわらず、医療行為によっては患者を害する可能性がある。
医原病の中には発生とほぼ同時にそれと判明するものもある。だが医原病によっては、発生から長い年月を経て医療技術が進歩し新しい見地が発見された後にようやく、従来の医療行為がなんらかの医原病を蔓延させる原因を作っていたとわかったりすることもある。
医原病の原因としては、医療器具、医薬品、医療材料の他にも、医師による誤診、医療過誤(不適切な薬物選択、不適切・未熟な手術、検査など)、院内感染等々が挙げられる。(→#原因別)
また、社会学者イリッチによって、医原病とは臨床的医原病、社会的医原病、文化的医原病の三つの段階を経て、現代社会に生きる我々を侵食する病のこと、ともされている。(→#広義の医原病)
[編集] 歴史
医者が患者を害する可能性は古代ギリシャの時代より知られ、医療技術や医療哲学の確立の中で重要な概念とされてきた。(「ヒポクラテスの誓い」にも「自身の能力と判断力に従って、患者に利する治療法を選び、害となる治療法を決して選ばない」と明記してあることからも伺える。)
パストゥールが細菌を発見する以前、19世紀中ごろまでの西洋の医学会では、清潔や不潔という概念も浸透しておらず、消毒法も確立していなかった。手術に医師は血に汚れたフロックコートを着て臨むなどし、患者らの傷口は細菌に汚染された共用の「たらい」の中の水で洗われ、患者間での細菌の伝播が起こった[3]。医師のなかには「傷が治るためには膿がでることが必要なのだと思っていた」[4]者も多かった。1867年の統計では、手足切断手術後の死亡率はチューリヒで46%、パリでは60%に及んだという[5]。
お産についても当時は医師が'死亡した産婦の解剖をして産婦の子宮からでる膿にまみれた手で次のお産に立会った'[6]ので、産道から細菌が入って子宮内感染症、敗血症になって(産褥熱)死亡する産婦が多数いた。その死亡率は10%以上にもなった[7]。
そのころ種痘事故や腸チフスの事故が多数発生していたが、その事故数についての集計表は厚生省の机の引き出しの奥にしまわれ「絶対に公表しない、一番関係の深い人たちだけが見る」ことになっていたと厚生省防疫課にいた職員が後に語ったように、事故を隠蔽する体質が厚生省にあったようである[8][9]。
1949年から1950年ごろ、日本では結核の治療法として肋膜外剥離合成樹脂球充填術がさかんに用いられたが化膿を引き起こし摘出されることが多く、後年高齢期を迎えるころには低肺機能となった人が多い[10]。
1956年、東京大学法学部長がペニシリンショックで死亡するという事故が起き、報道機関で大きく取り上げられた。この事故をきっかけとしてペニシリンによるショック死は実はすでに100名に及んでいたことが明らかになり社会問題としても扱われることになった[11]。
日本では1948年の「予防接種法」以降、強制接種や集団接種が拡大していったが、その強制接種や集団接種が安全な方法で行われていなかった。一例を挙げれば1964年に茨城県で行われた集団接種では、不十分な問診、複数の人に対して針を変えずに接種、マスクをせずに接種、不正確な量の注入、などのやり方が行われていたらしい[12]。複数の人に対して針を替えずに接種をする行為が蔓延していたことが日本でC型肝炎が多発した原因である[13]、と考えられている。
こうした医原病の概念と医原病対策は医学教育にも組み込まれており、医師は医原病を防止すべく日々努力している。
[編集] 個別の呼称
現在の日本の医学界では、ある症状や疾患が医療行為が原因で生じたことを明示しつつそれを呼ぶ場合は、「医原性○○○○」のように、症状・疾患名の前に「医原性」という言葉を配置していることも多い。
[編集] 原因別
[編集] 医療器具を原因とするもの
医療器具の使いまわしは病原体や悪性細胞等を別の人にうつしてまう可能性があるということが、研究の進歩により判明した。そのために一度使用した医療器具の滅菌・消毒を行なったり、滅菌が困難な医療器具の使い回しを止め、一回使い捨ての医療器具が開発され使用されるようになった。
使い捨て医療器具は本来なら使い捨てされるべきであるが、その使い捨て医療器具をおのおのの独自の基準によって再洗浄・再滅菌の上で再使用している病院も存在する[要出典]。日本では使い捨てにすると、現実的には赤字になることもあり、「健康保険で支払いを受けられないが、(再利用とはいえ)器具を用いた良質な医療を提供するにはやむを得ない」などの理由[要出典]によるようである。米国では再利用は社会問題化[要出典]し、使い捨て器具を再利用することに対して罰則が規定[要出典]された。日本では罰則規定は無いが、医療コストの適正算出はされていない。そのため逆ザヤとなり、医療機関の赤字を増大させている。(例:胃瘻チューブは医療機関の持ち出しとなることが多い。例え破損し交換の必要があっても、前回交換後一定期間内であると健康保険が支払いを拒む。)
そもそも、一回使い捨てを前提とした器具は設計上再滅菌再使用を想定していないものが多く[要出典]、複数回の再滅菌再使用により、同様の使用でも同じ結果が得られなかったり(メスであれば切れ味が悪くなる)、使用が困難になったりする(レンズであれば、濁って見えづらくなる)場合がみられることがある。基本的に一回使い捨てタイプの医療器具の但し書きには「再滅菌禁止」と明記してある場合が多い[要出典]。
使い捨てではない医療器具(再利用を想定)については、再使用に際し基本的には滅菌・消毒を行なうこととなる。
ただし、滅菌・消毒を行なったとしても医療器具の再使用による様々な合併症は防ぎ得ない。原因は器具に消毒薬・洗浄薬が残留していたもの、など多岐にわたる。また、近年の進歩した消毒方法で医療用器具を消毒をしたとしても、菌やウィルス、プリオンが他に感染可能な状態で生き残り他の人に感染させてしまう場合があることが、研究により判明した。
もっとも、合併症の可能性があるからといって全ての医療器具を(穿刺針などのように)使い捨てにすることができるかと言えば、一部の医療器具にはそのように単純にはゆかない現実もある。例えば上部消化管に使用する内視鏡などは現在のところまだ一つ100万円以上し、それを再使用せずに使い捨てにすることは荒唐無稽であろう、という意見もある。
[編集] 具体例
[編集] 注射器
かつて行われていた「注射器の使い回し」(一度ある人に対して使った注射針と注射器を別の人に対しても使うこと)により、ウィルス感染が拡大していたことも医原病にあたる。後になってから、注射器の使いまわしでウィルスの感染が起こるということが知られるようになり、使い捨ての注射針及び注射器が登場した。
[編集] 内視鏡
日本では、胃カメラによる検査の後に胃炎を発症する事例が多くあり、「胃カメラ後急性胃炎」などの名で呼ばれていた[要出典]。近年にヘリコバクター・ピロリの発見に伴いようやく、「胃カメラを介してある患者の胃の中のピロリ菌等を別の患者へと感染させていたことが主たる原因であった」と判明した。
その後現在でも日本では、すべての医療機関が内視鏡を1回の使用毎に十分に(あるいは完全に)消毒するガイドラインが策定され、医療機関は遵守するようになっている。生検鉗子と呼ばれる内視鏡処置具(レンズ部分ではなく、組織を採取する部分)は滅菌・消毒できるものが販売されるようになった。
[編集] 医療器具全般と異常プリオン
「変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(狂牛病)」の名により知られることになった異常プリオンは、消毒・高圧高温滅菌したとしても不活性化(いわゆる無害化)はできないため、穿刺針であれ内視鏡処置具[要出典]であれ手術用メス[要出典]であれ、一つの医療用の器具が複数の人間に対して使用されて組織内に挿入されたり組織を採取されたり切断されたりすることは、基本的に異常プリオンが転移し感染を引き起こすリスクを孕んでいる。
[編集] 医薬品を原因とするもの
医薬品の使用は副作用をもたらす可能性がある。また薬害が発生することもある。
[編集] 具体例
薬害を参照のこと
[編集] 輸血を原因とするもの
[編集] 具体例
[編集] 医療材料を原因とするもの
[編集] 具体例
[編集] 硬膜
異常プリオンに汚染されたヒト乾燥硬膜(ライオデュラ)が多数の患者に移植されクロイツフェルト・ヤコブ病の感染を引き起こしたことは世界的に問題となった。
[編集] X線を原因とするもの
[編集] 具体例
X線検査によるもの
[編集] 麻酔を原因とするもの
[編集] 具体例
[編集] 手術を原因とするもの
[編集] 具体例
[編集] 検査を原因とするもの
[編集] 具体例
[編集] 広義の医原病
イリッチによると、医原病とはこうした狭義のものだけを指す訳ではない。 社会的医原病とは、医療社会学や医療人類学の用語でいう「医療化」(Medicalization)を差し[要出典]、医療の対象が拡大していくことを指す[要出典]。かつては自宅で身近に触れ得た死や出産が病院に囲いこまれていき、自然な過程であるはずの老化も医療の対象とされていき、老人にまで降圧剤治療が行われるようになるなど、現代社会においては、資本主義下の医療のキャラナライゼーション、過剰医療をも意味することになる。
文化的医原病は、医療の対象拡大が人々の思考を無意識に支配するようになった結果、自分の身体、自分の健康にも関わらず主体性を失い、人々がその管理に関して無関心・無責任となり、医師に全面的に任せて平気となる=思考停止し怪しまなくなってしまっている状態を指す。医師による「専門家支配」(Professional Dominance)・パターナリズム医療の所産でもあり、端的に言えば、日本で見られる、いわゆる「お任せ医療」状態のことである。
[編集] 出典・脚注
- ^ 治療の結果、原疾患による後遺症が生じた例はこれに当てはまらない。
- ^ "Limits to Medicine: Medical Nemesis, the Expropriation of Health":邦訳『脱病院化社会』晶文社
- ^ 近藤 誠『医原病-「医療信仰」が病気をつくりだしている』講談社2000年, ISBN 4062720507 p.88
- ^ 前掲書ISBN 4062720507 p.90
- ^ 前掲書ISBN 4062720507 p.88
- ^ 前掲書 ISBN 4062720507 p.89
- ^ 前掲書 ISBN 4062720507 p.89
- ^ 前掲書 ISBN 4004111196 p.112
- ^ 川上武『戦後日本病人史』農文協2002年, ISBN 4540001698, 第8章「薬害・医原病の多発とその背景」
- ^ 前掲書 ISBN 4540001698 p.323
- ^ 前掲書 ISBN 4540001698, p.324
- ^ 前掲書 ISBN 4004111196 p.112-114
- ^ 読売新聞2000年2月9日記事「広がるC型肝炎、3割が「陽性」の地域も」
[編集] 関連項目
[編集] 関連書
- イヴァン・イリッチ『脱病院化社会―医療の限界』晶文社, 1998年, ISBN 4794912625(Ivan Illich "Limits to Medicine: Medical Nemesis, the Expropriation of Health",1979, ISBN 0714529931)
- 川上 武『戦後日本病人史』農文協, 2002年, ISBN 4540001698
- 近藤 誠『医原病-「医療信仰」が病気をつくりだしている』講談社, 2000年, ISBN 4062720507
- 地域医療評議会『医原病―医者があなたを病気にする!?』大和出版, 1998年, ISBN 4804760547
- 安保 徹『医療が病いをつくる―免疫からの警鐘』岩波書店, 2001年, ISBN 4000221132
- 岡田正彦『治療は大成功、でも患者さんは早死にした』講談社, 2001年, ISBN 4062720671
- ロバート・メンデルソン『医者が患者をだますとき』草思社, 1999年, ISBN 4794208545
- ロバート・メンデルソン『医者が患者をだますとき 女性篇』草思社, 2001年, ISBN 4794210485