伊達綱宗
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伊達 綱宗(だて つなむね、1640年9月23日(寛永17年8月8日) - 1711年7月19日(正徳元年6月4日))は、陸奥国仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。父は第2代藩主・伊達忠宗(綱宗は忠宗の六男)。母は後西天皇の母・逢春門院の妹・貝姫。正室はなし。子は伊達綱村(長男・嫡男)、伊達村和(次男・家臣伊達宗景養子)、伊達宗贇(三男・始め家臣石川宗弘養子、後伊達宗利養子・宇和島三代)、伊達村直(四男・家臣伊達宗倫養子)、娘清姫(伊達基実室のち伊達村隆室)、娘(伊達村元室)、娘(中村成義室)、娘(立花貞晟正室)、娘(本多康命正室)など。養子伊達村景(伊達村元子・家臣伊達宗景へ養子)
[編集] 生涯
幼名は巳之介。母が天皇の母の妹に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。六男であったが、兄・伊達光宗の夭折により嫡子となる。万治元年(1658年)、父・忠宗の死により家督を継いで第3代藩主に就任。官位は従四位下。左近衛権少将。陸奥守。美作守。
しかし綱宗自身が若年で暗愚だったため、酒色に溺れて藩政を顧みなかったこと、さらには叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)、21歳の若さで隠居させられた(綱宗隠居事件)。家督は綱宗の2歳の長男・綱村が継いだ。綱宗自身はその後、作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。
綱宗が酒色に溺れ、わずか2歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになったのである。だが、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾大夫の身請けやつるし斬りなどは俗説とされる。[1]これに対して、綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、保身のために暗愚なふりをしていたとの説もある。実際綱宗は風流人で諸芸に通じ画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残している。また、藩主交代そのものが仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力であるとの説もある。
綱宗は正徳元年(1711年)、江戸で死亡した。法名は見性院殿雄山全威大居士。遺体は仙台に運ばれ、祖父政宗、父忠宗が眠る経ヶ峯に葬られた。綱宗の墓所は善応殿と呼ばれた。第二次世界大戦中の仙台空襲で、政宗の墓所瑞鳳殿、忠宗の墓所感仙殿と共に焼失した。昭和56年(1981年)から再建のための学術調査が行われ、その結果、綱宗は身長155cmのA型で、死因は喉頭癌であることが明らかになった。また、副葬品には文房具が多く、綱宗の芸術好きが色濃く現れている。
[編集] 系譜
- 側室:三沢初子
- 側室:平田氏
- 側室:某氏
- 側室:某氏
- 側室:某氏
- 伊達吉十郎
- 女
- 女
- 養子
- 女(石川村弘室、伊達村元の子)
- 伊達村景(伊達村元の子)
[編集] 補注
伊達宗家 |
歴代当主 |
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平安末期 - 戦国末期
朝宗 | 宗村 | 義広 | 政依 | 宗綱 | 基宗 | 行朝 | 宗遠 | 政宗 | 氏宗 | 持宗 | 成宗 | 尚宗 | 稙宗 | 晴宗 | 輝宗 |
陸奥仙台藩主(松平陸奥守家)
政宗 | 忠宗 | 綱宗 | 綱村 | 吉村 | 宗村 | 重村 | 斉村 | 周宗 | 斉宗 | 斉義 | 斉邦 | 慶邦 | 宗基 |
明治 - 現在 |
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