伊達義広
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伊達 義広(だて よしひろ、文治元年(1185年) - 康元元年(1256年)又は建長3年(1251年))は、鎌倉時代の武将。蔵人大夫、従五位下。
伊達氏第3代当主。伊達宗村の次男。通称:粟野次郎、入道覚佛。 卒年は定かではなく、『伊佐早文書』では建長3年(1251年)、『伊達系図』では康元元年(1256年)となっている。
初代朝宗、二代宗村の頃まで居城は伊達郡桑折郷の高子岡に築かれていたが、義広の代になって桑折郷の栗野大館(現福島県伊達市梁川町粟野)に居城を移したとされている。
承久3年1221年、承久の乱に家臣の原田某を遣わし、北条泰時に従い宇治勢力と戦っている。
伊達氏は伊達郡の地頭職に就いており、伊達氏は他にも出雲国・但馬国にも地頭職を持っていた。
これを継承したのが義広の兄である修理亮時綱で、出雲・但馬伊達氏の始祖となっている。
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