伊達周宗
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伊達 周宗(だて ちかむね、1796年4月9日(寛政8年3月2日)-1809年(文化6年))は、仙台藩の第9代藩主で、陸奥国伊達氏の第25代当主。第8代藩主・伊達斉村の長男。母は鷹司輔平の娘。婚約者は11代将軍・徳川家斉の娘・浅姫。官位はなし。
[編集] 経歴
幼名を政千代という。寛政8年(1796年)、誕生した年に父が死去したことにより、堀田正敦(第6代藩主・伊達宗村の八男で、近江国堅田藩主。のち下野国佐野藩主)の後見を受けて跡を継ぎ、藩主となった。誕生し、しかも同年のうちに藩主となった翌年には、仙台藩において歴代最大の百姓一揆が発生した。これは、周宗の統治というよりも、家臣団で運営されていた統治が、うまく機能していなかったためと言われている。
文化6年(1809年)、わずか14歳で早世。当然、嗣子がいるはずも無く、仙台藩は無嗣断絶の危機に立たされた。しかし、国家老の中村日向守貞義(中村家当主)の機知により、周宗の死を何とか3年間、隠蔽した(当時、嗣子(世子)を立てることができるのは17歳のときであり、14歳で死去した周宗に嗣子を立てることはできなかった)。そして3年後の文化9年(1812年)4月24日、周宗は弟の伊達斉宗を嗣子として立てた後に亡くなったことにしている。こうして、伊達氏は改易の危機を切り抜けた。
ところで、本当に周宗の死を3年間も隠匿できたのであろうか。実は一説には、幕府は周宗の死を知っていたが、伊達氏は東北でも最大の大藩なので、あえて放置していたとも言われている。また、この頃は第11代将軍・家斉のもとで「大御所政治」と呼ばれる放漫的な政治が行なわれていたため、伊達氏は幕閣に賄賂を贈って凌いでいたとも言われている。後見役の堀田正敦が幕府の若年寄を務めていたことも理由の一つであろう。
[編集] 系譜
- 養子
伊達宗家 |
歴代当主 |
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平安末期 - 戦国末期
朝宗 | 宗村 | 義広 | 政依 | 宗綱 | 基宗 | 行朝 | 宗遠 | 政宗 | 氏宗 | 持宗 | 成宗 | 尚宗 | 稙宗 | 晴宗 | 輝宗 |
陸奥仙台藩主(松平陸奥守家)
政宗 | 忠宗 | 綱宗 | 綱村 | 吉村 | 宗村 | 重村 | 斉村 | 周宗 | 斉宗 | 斉義 | 斉邦 | 慶邦 | 宗基 |
明治 - 現在 |
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