伊達宗遠
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伊達 宗遠(だて むねとう、正中元年(1324年) - 元中2年/至徳2年(1385年))は守護大名。伊達氏第8代当主。官位は従五位下、弾正少弼。父は伊達行宗、母は田村氏の娘・静照院。息子に伊達政宗など。 宗遠の息子の宗行は、大条氏(大枝)[1]の祖となった。
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[編集] 経歴
1380年頃から長井氏を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局1385年には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れる事になった。 1381年には大崎氏と戦い信夫郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡を奪い、また、武石行胤を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。 この時代には小沢氏、余目氏などと一揆契約を結んでいる。 また、米沢の成島八幡宮の拝殿を改築している。
[編集] 系譜
[編集] 系譜の疑問点
伊達氏初期系図には色々と差異が生じていたり、同時代の史料と食い違う部分も見られる。
行宗-宗遠の場合、1348年の『奥州管領吉良貞家の書状』の中に 「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官伊達修理亮宗政」とみえ、 また宗遠の初見は1342年の『五辻顕尚の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、 宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている[2]。 1377年に伊達宗政(修理亮)が留守持家と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、 修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。 また、伊達行宗の子息には伊佐城主となった伊達宮内太郎行資(伊佐岡氏祖)がおり、行資こそが万寿丸で、宗遠は「行宗の庶子」「行宗の弟」「有力な親族」の何れかである可能性が指摘されている[要出典]。
[編集] 脚注
伊達宗家 |
歴代当主 |
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平安末期 - 戦国末期
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