下館城
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下館城 (茨城県) |
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通称 | 螺城、法螺貝城 |
築城主 | 水谷勝氏 |
築城年 | 文明10年(1478年) |
主な城主 | 水谷氏、松平頼重、増山氏、黒田氏、石川氏 |
廃城年 | 明治2年(1869年)か? |
遺構 | 本丸跡、堀跡 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
下館城(しもだてじょう)は、現在の茨城県筑西市甲(本城町)にあった城。筑西市指定文化財(史跡)。
目次 |
[編集] 概要
天慶年間(938-948)、藤原秀郷が平将門追討のために築いた三館(上館・中館・下館)[1]のうち下館にあたるという伝承がある。
文明10年(1478年)、水谷伊勢守勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城したのが、明治維新まで残った城郭の始まり。以後水谷氏の居城として戦国時代を経て、江戸時代初期の寛永16年に水谷勝隆が備中国成羽藩へ転封[2]。松平頼重が入封する。寛永19年(1642年)の松平頼重転封後は一時天領となるが、井上正岑、黒田直邦などの支配を経て、石川総茂が2万石で入封。石川氏9代の治世が続き明治維新を迎えて、廃城となった。
[編集] 歴史・沿革
- 文明10年(1478年)、水谷勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城。
- 天文14年(1545年)、水谷正村(蟠龍斎)が宇都宮氏に備え、下館城の北に支城久下田城を築く。
- 天正18年(1590年)、水谷勝俊が豊臣秀吉から下館領と下野芳賀郡をあわせた水谷領4万7000石を安堵される。
- 寛永16年(1639年)、水谷勝隆が備中成羽に転封。
- 寛永16年(1639年)、松平頼重が5万石で入封。
- 寛永19年(1642年)、松平頼重が讃岐国高松藩12万石を賜って転封。
- 寛文3年(1663年)、増山正弥が三河国西尾藩より入封。
- 元禄15年(1702年)、増山正弥が伊勢国長島藩に転封。
- 元禄15年(1702年)、井上正岑が丹波国亀山藩より入封。
- 元禄15年(1702年)、井上正岑が常陸国笠間藩へ転封。
- 元禄16年(1703年)、黒田直邦が入封。
- 享保17年(1732年)、黒田直邦が上野国沼田藩に転封。
- 享保17年(1732年)、石川総茂が伊勢国神戸藩より2万石で入封。
- 石川氏9代の石川総管に至り明治維新となり、下館藩は明治2年に版籍奉還。下館城も廃城となる。
[編集] 構造
東に勤行川が流れる台地上に建つ。濠を三重にめぐらし別名として螺城または法螺貝城と称する。
[編集] 周辺
[編集] 支城
[編集] 考古資料
[編集] 遺構
現在城域は筑西市立下館小学校および宅地などとして開発されており、はっきりとした遺構を確認するのは難しい。本丸跡に八幡神社が残る。現在下館小学校と八幡神社境内の間に、堀の一部が道路となり残っている。
[編集] 脚注
- ^ 三館のうち、中館は後に伊佐氏により改修され伊佐城に、上館は水谷正村(蟠龍斎)により改修され久下田城になったとされる。
- ^ 水谷勝隆はその後備中国松山藩に転封となり、次代の水谷勝宗が備中松山城(国の重要文化財)を改修。今も残る松山城天守は、この時の改修により現在の形となった。