石川総管
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石川 総管(いしかわ ふさかね、天保12年8月9日(1841年9月23日) - 明治32年(1899年)6月23日)は、常陸下館藩の第9代(最後)の藩主。伊勢亀山藩石川家支藩11代。
第8代藩主・石川総貨の長男。子は石川重之(長男)。官位は従五位下。若狭守。幼名、重之助。
嘉永2年(1849年)、藩主(雁間詰)に就任。安政2年(1855年)従五位下若狭守に任ぜられる。慶応2年(1866年)講武所奉行、若年寄兼陸軍奉行となり、慶応3年(1867年)には陸軍副総裁など、幕府の要職を累任した。
幕末期の動乱の中で要職を歴任した経緯から、藩論は佐幕派であり、戊辰戦争においては旧幕府側に与しようとしたが、結局は新政府側に協力。そのため明治元年(1868年)、旧幕府軍に下館に侵入されて味方を強要されたが、軍資金200両を送ると旧幕府軍は退去した。一時は難を逃れたものの、さらに新政府軍から味方を要請されると、進退に窮して密かに下館を脱出。水戸へ逃れて吉田薬王院に逼塞する。その後、宇都宮を中心とする戦いが新政府軍の勝利の後、ようやく下館に戻った。
明治2年(1869年)版籍を奉還して下館藩知事に就任、のち廃藩置県により免官。明治17年(1874年)には子爵に列せられる。明治15年(1882年)より旧領地・下館に隠棲し、明治32年(1899年)に東京芝愛宕下の屋敷で没した。
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