ロッド・レーバー
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ロッド・レーバー(Rod Laver, 1938年8月9日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州出身の男子テニス選手。フルネームは Rodney George Laver (ロドニー・ジョージ・レーバー)という。1962年と1969年の2度「年間グランドスラム」を達成した名選手である。生涯を通じて「2度」この偉業を成し遂げたテニス選手は、男女を通じてレーバー1人だけである。テニス史上最大の転換期、プロ選手の4大大会出場が解禁された「オープン化」の境目の時期に活躍した。左利き。身長172cm、体重68kgと小柄な体格の選手だった。彼は「ロケット・レーバー」(Rocket)というニックネームで呼ばれた。重厚なトップスピン(順回転)のボールを繰り出した彼の左腕は、対戦相手から見ると“ゴリラのような”威圧感があったという。4大大会シングルス通算「11勝」は、ビョルン・ボルグと並ぶ男子歴代4位タイ記録である。
レーバーは幼少時は虚弱な子供だったが、テニスを始めてから体力的にめきめきと成長した。彼のことを最初に「ロケット」(Rocket)と呼んだのは、オーストラリアの往年の名選手で、当時デビスカップのオーストラリア代表監督を務めていたハリー・ホップマン(1906年 - 1985年)であった。1956年、17歳の時に「全米ジュニアテニス選手権」で優勝し、ここから彼の選手生活が始まる。2年後の1959年、レーバーはウィンブルドンで初の決勝進出を果たすが、ペルー人選手のアレックス・オルメドに敗れて準優勝になる。1960年に地元の全豪選手権で4大大会初優勝を果たすが、ウィンブルドンでは同じオーストラリアの左利き選手、ニール・フレーザーに決勝で敗れ、2年連続準優勝の苦杯をなめた。1961年のウィンブルドン決勝戦で、レーバーはアメリカのチャック・マッキンリーを 6-3, 6-1, 6-4 で破り、3年連続の決勝進出でついに宿願のウィンブルドン初優勝を達成した。1962年、ロッド・レーバーは1年間ですべての4大大会に優勝を遂げ、男子テニス選手としてドン・バッジ(1915年 - 2000年)以来24年ぶりの年間グランドスラムを達成した。奇しくも、バッジがテニス史上最初の年間グランドスラムを達成した1938年は、レーバー自身が誕生した年でもあり、彼が生まれた8月9日からちょうど1ヶ月後の出来事であった。この後、レーバーはプロテニス選手に転向する。
当時のテニス4大大会(全豪選手権、全仏選手権、ウィンブルドン選手権、全米選手権)の出場資格は、アマチュア選手に限定されていた。しかし1930年代後半頃から、トップ選手たちのほとんどが頂点を極めた時点でプロに転向する道を選んでいた。プロ選手たちは戦いの場を「全仏プロテニス選手権」(French Pro)/「全米プロテニス選手権」(US Pro)/「ウェンブリー・ワールド・プロテニス選手権」(Wembley World Pro)に移していく。そうなると、必然的に4大大会の競技レベルは落ちる。テニス界はそのジレンマを30年ほど抱えていたが、ついに1968年から4大大会にプロ選手の出場を解禁することを決定した。これを「オープン化」と呼び、テニスの歴史を通じて最大の転換点となる。大会の名称はそれぞれ全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープンに変更された。1968年以後のテニス記録は「オープン化時代」(Open Era)と呼ばれ、それ以前とは明確に区別されるようになった。こうして、プロ選手になったロッド・レーバーも6年ぶりに4大大会に復帰を果たし、1968年にウィンブルドンで「6年ぶり」3度目の優勝を果たす。そして1969年に、2度目の年間グランドスラムを達成した。2度の偉業を成し遂げた選手は、テニスの歴史を通じてレーバー1人しかいない。この年の年間4連勝を最後に、レーバーの4大大会シングルス優勝は途切れる。通算「11勝」はビョルン・ボルグと並ぶ男子歴代3位タイ記録で、アマチュア選手の立場で通算「12勝」を挙げた同国のライバル、ロイ・エマーソンの総計に1つ及ばなかった。
1973年に入ると、プロ選手たちは男子国別対抗戦・デビスカップにも出場の道が開かれるようになった。そこでレーバーもオーストラリア代表に復帰する。40歳を迎える1978年まで、レーバーは現役テニス選手としてコートに立ち続け、アマチュア選手からプロ選手として「23年間」に及んだ選手生活を通して、当時のプロテニス選手としては相当な「156万4,213ドル」の生涯獲得賞金を記録した。1981年に国際テニス殿堂入りを果たしている。
2000年の全豪オープン開幕に先立ち、メルボルン市のナショナル・テニスセンターのセンター・コートが「ロッド・レーバー・アリーナ」と命名された。「オープン化時代」(Open Era)の第1回大会として行われた1969年「全豪オープン」の男女シングルス優勝者の功績を讃えて、センター・コートにはレーバーの名前を記念し、隣の1番コートは女子シングルス優勝者マーガレット・コート夫人を記念して「マーガレット・コート・アリーナ」の名前をつけた。2003年には「オーストラリア伝説賞」と命名されたレーバーの記念切手が、当地郵便局の「オーストラリア・ポスト」から発売された。(現地名称:“Australia Post, Australian Legends Award”)2006年の全豪オープンで、レーバーは男子シングルス決勝の表彰式に登場し、ロジャー・フェデラーに優勝カップを授与した。
後に4大大会優勝の男子歴代1位記録保持者となり、通算「14勝」を挙げたピート・サンプラスは、レーバーに憧れてテニスを始めた選手のひとりである。
[編集] 4大大会優勝
- 全豪オープン:3勝(1960年、1962年、1969年)
- 全仏オープン:2勝(1962年、1969年)
- ウィンブルドン:4勝(1961年&1962年、1968年&1969年)
- 全米オープン:2勝(1962年、1969年)
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
---|---|---|---|
1960年 | 全豪オープン | ニール・フレーザー | 5-7, 3-6, 6-3, 8-6, 8-6 |
1961年 | ウィンブルドン選手権 | チャック・マッキンリー | 6-3, 6-1, 6-4 |
1962年 | 全豪選手権 | ロイ・エマーソン | 8-6, 0-6, 6-4, 6-4 |
1962年 | 全仏選手権 | ロイ・エマーソン | 3-6, 2-6, 6-3, 9-7, 6-2 |
1962年 | ウィンブルドン選手権 | マーティン・マリガン | 6-2, 6-2, 6-1 |
1962年 | 全米選手権 | ロイ・エマーソン | 6-2, 6-4, 5-7, 6-4 |
1968年 | ウィンブルドン | トニー・ローチ | 6-3, 6-4, 6-2 |
1969年 | 全豪オープン | アンドレス・ヒメノ | 6-3, 6-4, 7-5 |
1969年 | 全仏オープン | ケン・ローズウォール | 6-4, 6-3, 6-4 |
1969年 | ウィンブルドン | ジョン・ニューカム | 6-4, 5-7, 6-4, 6-4 |
1969年 | 全米オープン | トニー・ローチ | 7-9, 6-1, 6-2, 6-2 |
テニス4大大会男子シングルス優勝記録 | ||
---|---|---|
順位 | 優勝回数 | 選手名 |
1位 | 14勝 | ピート・サンプラス |
2位タイ | 12勝 | ロイ・エマーソン | * ロジャー・フェデラー |
4位タイ | 11勝 | ロッド・レーバー | ビョルン・ボルグ |
6位 | 10勝 | ビル・チルデン |
7位タイ | 8勝 | フレッド・ペリー | ケン・ローズウォール | ジミー・コナーズ | イワン・レンドル | アンドレ・アガシ |
12位タイ | 7勝 | ルネ・ラコステ | アンリ・コシェ | ジョン・ニューカム | ジョン・マッケンロー | マッツ・ビランデル |
*は現役選手 | ||
[編集] 関連項目
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