ヤニック・ノア
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ヤニック・ノア |
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基本情報 |
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ラテン文字名 | Yannick Noah |
国籍 | フランス |
出身地 | 同・スダン |
生年月日 | 1960年5月18日 |
身長 | 193cm |
体重 | 81kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1976年 |
引退年 | 1996年 |
ツアー通算 | 39勝 |
シングルス | 23勝 |
ダブルス | 16勝 |
生涯通算成績 | 689勝319敗 |
シングルス | 476勝210敗 |
ダブルス | 213勝109敗 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | ベスト4(1990) |
全仏 | 優勝(1983) |
全英 | 3回戦(1979・85) |
全米 | ベスト8(1983・85・89) |
優勝回数 | 1 |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 3位 |
ダブルス | 1位 |
Template |
ヤニック・ノア(Yannick Noah, 1960年5月18日 - )は、フランス・スダン出身の元男子プロテニス選手。1983年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、フランス人の男子選手としては現時点で最後のグランドスラム大会シングルス優勝者である。サービス・アンド・ボレーのプレースタイルを得意とした選手で、華麗なパフォーマンスで高い人気を持っていた。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス23勝、ダブルス16勝を挙げた。身長193cm、体重81kg、右利き。
ヤニック・ノアの父親はカメルーン人、母親はフランス人で、アフリカとヨーロッパの混血の家庭に育った。子供の頃からジミ・ヘンドリックスなどの音楽に憧れたが、職業はテニス選手の道を選び、1980年にプロ入りする。1983年の全仏オープン決勝で、大会2連覇を狙ったスウェーデンのマッツ・ビランデルを 6-2, 7-5, 7-6 で破り、地元の大会で1946年のマルセル・ベルナール(1914年 - 1994年)以来37年ぶりのフランス人男子シングルス優勝者に輝いた。これを最後に、フランス人の男子テニス選手は4大大会のシングルス・タイトルを獲得できない状態が続いている。
1991年に現役を引退し、男子国別対抗戦・デビスカップや女子国別対抗戦・フェドカップの監督として、フランス・チームを優勝に導いた。デ杯の優勝は1991年、1996年、1997年の3度達成し、フェド杯も1997年に初優勝を実現させている。2005年7月9日に国際テニス殿堂入りを果たした。現在は歌手として世界的に活動している。
バスケットボールNCAAトーナメントで、フロリダ大の中心選手として二連覇を達成。現在シカゴ・ブルズに所属するジョアキム・ノアは実子である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ヤニック・ノア (英語) - ATPツアーのプロフィール
- デビスカップ成績表
- 国際テニス殿堂 (英語)
- ラジオ・フランス・インターナショナル (英語版、テニスと歌手活動の両方を調べられる)
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