レオポルト・フォン・ランケ
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レオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke, 1795年12月21日(20日説あり) - 1886年5月23日)は、19世紀ドイツの指導的歴史家。実証主義に基づき、史料批判による科学的な歴史学を確立した。ランケ以前の歴史研究者を「歴史家」、以降の歴史研究者を「歴史学者」と呼ぶように、ランケの業績は歴史学の画期となった。また、教育面では演習(ゼミナール)を重視した。「それは事実いかにあったのか」を探究する実証主義的な研究法と教育方法は、ドイツ国内のみならずイギリス・アメリカの歴史学に大きな影響を与えた。
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[編集] 生涯
1795年12月21日にザクセン選帝侯国チューリンゲン地方ヴィーエに代々ルター派の牧師の家に生まれる。長じてライプツィヒ大学に入学して古典と神学を研究した。この時期に中世の史料講読法を習得した。1818年フランクフルト・アン・デア・オーデルのギムナジウムの教師となる。1825年に、ベルリン大学史学科助教授。1834年に同大学教授となる。1865年に貴族に列せられる。1886年5月23日ベルリンで89歳で没した。
ランケは、生家から影響された敬虔なルター派プロテスタントに、フィヒテの理想主義と、ゲーテの人間性の哲学を統合し、独自の歴史哲学を構築していった。また、他方では、18世紀の世界史観に、人間及び社会の個性と有機的な発展というロマン主義の原理を繋ぎ合わせていった。ランケ史学は、従来の啓蒙主義から派生した教訓的、実用的歴史学に対する批判に特徴がある。ランケは、あくまでも実際の事物がどのようなものであったかを発見しようとつとめた。
ランケの処女作である『ラテン及びゲルマン諸民族の歴史』Geschichte der romanischen und germanischen Völker von 1494 bis 1514 (1514年で執筆は中断された。1824年に公刊)には、既に以上のような歴史的思考法によって、ラテン、ゲルマン諸民族の西ヨーロッパにおける共同体の形成や、キリスト教と人文主義の文化価値の統合、キリスト教的神の世界史における影響などが余すことなく記述されている。この処女論文は彼の以後の歴史学を規定すると共に、ベルリン大学での50年間の教育活動への道を切り開いたものである。
ランケは、人物の性格研究に優れていた。特に初期の著作である、『ローマ教皇史』Die römischen Päpste in den letzen vier Jahrhunderten, (1834年~1836年)において顕著である。彼は、近代ヨーロッパ社会の基軸を、教会と国家の関係の変化の中に見出していった。
ランケが記した諸国民史―『プロイセン史9巻』Neun Bücher preussischer Geschichte (1847年~1848年)、『フランス史』Französische Geschichte, vornehmlich im sechzehnten und siebzehnten Jahrhundert (1852年~1861年)、『イギリス史』Englische Geschichte, vornehmlich im sechzehnten und siebzehnten Jahrhundert (1859年~1869年)は、16世紀および17世紀の近代国家の発展期を集中して記述したものである。
青年時代にランケは万国史や列国史ではない歴史叙述としての「世界史」の執筆の望みを持っていた[1]が、晩年に、この作業に着手した。この『世界史』Weltgeschichte(1881年~1888年)は、ランケの生前は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世までの記述で(死後、ランケの草稿をもとに15世紀半ばまで加筆された)断片的である。
また、ランケは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と密接な関係にあり、復古主義に陥り、革命勢力に対しては公正とは言えなかった。『世界史』においても、時代遅れの観点をさらけ出しており、大英帝国の覇権や、アメリカ独立革命、帝政ロシアの膨張については触れていない。さらに資本主義社会や産業革命による産業社会の発達についても扱ってはいない。とは言え、彼の歴史像は限定されたものであったが、彼の影響は、ドイツにとどまらず欧米社会に波及し、近代歴史学研究法の創始者と目される。ランケは古文書学の優れた研究家であり、メッテルニヒ時代の外交政策、特に東方問題について深い見識を有していた。さらにそれから敷衍し、16世紀、17世紀全般の列強の興隆について研究を拡大していった。
組織者としても辣腕を振るい、1858年にはバイエルン王マクシミリアン2世のもとに「バイエルン学士院歴史学委員会」を創設し、こうした委員会により、文書や書簡の保存や刊行を指導した。
ベルリン大学では、演習(ゼミナール)形式を重視し、史料を方法的に分析し、経験的に解釈・判断するという方法を採り、バルトホルト・ゲオルク・ニーブールとならんで近代歴史学の祖といわれる。上述の『ローマ的・ゲルマン的諸民族の歴史』の付録として刊行された『近世歴史家批判』(1824年)は、厳密な史料批判をとおして科学的な近代歴史学の基礎を確立した著作として、画期的な意義をもつとして今も名高い。その後継者には、プロイセン学派のヨハン・グスタフ・ドロイゼンやハインリッヒ・フォン・トライチケがいる。
[編集] 主要論文・その他
- Fürsten und Völker von Süd-Europa im sechzehnten und siebzehnten Jahrhundert
- Deutsche Geschichte im Zeitalter der Reformation (1845-1847)
- Die deutschen Mächte und der Fürstenbund (1871-1872)
- Ursprung und Beginn der Revolutionskriege 1791 und 1792
- Hardenberg und die Geschichte des preussischen Staates von 1793 bis 1813
[編集] 脚注
- ^ 「近世歴史家批判」(1824)、『ラテン及びゲルマン諸民族の歴史』附録