ミヘイル・サアカシュヴィリ
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ミヘイル・サアカシュヴィリ(მიხეილ სააკაშვილი, Mikheil Saakashvili, 1967年12月21日 - )は、グルジアの政治家。2003年11月の無血革命では指導的役割を果たし、2004年1月4日に行われた選挙で大統領に選出された。ミハイル・サーカシュヴィリとも表記される。
1992年、ウクライナのキエフ国立大学国際法学部を卒業後、アメリカ合衆国に渡り、1994年、コロンビア大学で法学位(Law Degree)を取得。1995年、ジョージ・ワシントン大学より法学の博士号(Ph.D. degree in Law)を受けた。
ニューヨークの法律事務所で勤務している間に政界入りの誘いを受け、同年12月、グルジア議会選挙でシェワルナゼ大統領の与党グルジア市民連合から出馬し当選。当選後は新選挙制度、独立した司法制度と警察を設立するための議会委員会の委員長となって、たちまちその名を知られるようになり、1997年の調査ではシェワルナゼ大統領についで2番目に人気のある人物にあげられた。
2000年10月12日、シェワルナゼ政権の法務相に就任。腐敗し、政治の影響力が強い刑事裁判と刑務所制度の改革を断行し、国際的に高い評価を受けたが、彼が腐敗していると告発するシェワルナゼ体制内の要人と対立することとなった。サアカシュヴィリは2001年9月5日に法務相を辞任すると、シェワルナゼ大統領が腐敗をただす意図を持っていないことを非難して反大統領の意思を明らかにした。
サアカシュヴィリは政府の腐敗に反対する人々を糾合するため、翌月新政党「国民運動」を結成し、その党首となった。彼ら野党勢力は、2003年11月2日に行われた議会の総選挙でシェワルナゼ政権が大規模な不正を行ったと宣言し、選挙のやり直しと大統領の辞任を求める大規模な集会を首都のトビリシで行った。11月20日に始まり、10万人以上と呼ばれる人々を集めサアカシュヴィリが先頭に立った野党勢力は議会を占拠し、11月23日シェワルナゼ大統領と交渉。シェワルナゼの提示した大統領選挙前倒しと議会選やり直しの提案を拒否し、大統領を辞任させた。
11月26日、ニノ・ブルジャナゼ暫定大統領を含む野党勢力はサアカシュヴィリを野党の統一大統領候補とすることを表明。2004年1月4日に行われた大統領選挙は当初、アブハジア自治共和国など地方のボイコット宣言もあって選挙が有効となるか危ぶまれおり、大統領選挙成立となる投票率50%を越えないのではないかとの危惧も存在していた。ところが開票されてみると、投票率88.97%、得票率96.27%[1]という、「民主的な選挙」としては驚異的な得票を得てサアカシュヴィリが圧勝する。サアカシュヴィリは同月25日、正式に大統領に就任した。
サアカシュヴィリ自身、強硬なナショナリストとして知られ、グルジアの領土統一を目指して当時、ロシア寄りであったアジャリア自治共和国との国境を軍を使って封鎖し、武力侵攻も辞さないとの立場を示した。 また、同じく親露派のアブハジアと南オセチア共和国の分離独立・北オセチアとの統一問題で、ロシアに対して抵抗する姿勢を示し、アブハジアからのロシア軍即時撤退を求めている。
しかしその後、野党デモをきっかけとした非常事態宣言(11月7日)や言論統制など強硬政策を行い、国内外からの批判が強まった。バラ革命後も政情不安は改善せず、ロシアが平和維持としてアブハジアに軍を駐留するなど、ロシアとの外交関係は険悪化した。こうしたサアカシュヴィリの強行的な言論弾圧や政敵排除は、後ろ盾であるアメリカ合衆国などを始め、民主化の後退との印象を強めさせた。
その後、サアカシュヴィリは、非常事態宣言を解除(11月16日)し、国民の不満を受けて次期大統領選の前倒しを宣言して立候補し当選した。
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