マーチャーシュ・コルヴィヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フニャディ・マーチャーシュ(Hunyadi Mátyás, 1443年 - 1490年4月6日)は、ハンガリー王(在位1458年 - 1490年)。マーチャーシュ1世。「正義王」の異名がある。マティアス・コルヴィヌス(Matthias Corvinus Huniades)とも呼ばれる。コルヴィヌスあるいはコルウィヌスは「烏(corvus コルウス)の人」を意味するラテン語名で、フニャディ家の烏(カラス)の紋章に由来し、それはヴァイダフニャド城の別名に由来する。1479年にはオーストリア大公国の支配権も得る。
王軍を常備軍として設置し、中央集権化を進めて、中世ハンガリーの最盛期を築いた。ルネサンス文化を奨励したことでも知られる。ハンガリーの1000フォリント紙幣には、マーチャーシュの肖像が印刷されている。
目次 |
[編集] 略年表
- 1441年(1443年とも)、トランシルヴァニア地方のコロジュヴァール(現ルーマニアのクルージュ・ナポカ)でトランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュの次男として生まれる。
- 1456年、父ヤーノシュがペストのため没。
- 1458年、17歳でハンガリー王に即位。
- 1461年、上部ハンガリー(現スロヴァキア)を事実上支配していた傭兵隊長ギシュクラ・ヤーノシュ(ヤン・イスクラ)を破って配下とする。
- 1465年、ローマ教皇ピウス2世より、フス派が勢力を持つボヘミアへの出兵要請を受ける。
- 1468年、ボヘミアに出兵、モラヴィアを占領。
- 1471年、ボヘミアに再出兵、シレジアと上ラウジッツを占領。
- 1479年、オロモウツの和約。ハプスブルク家からオーストリアの支配権をかちとる。
- 1485年、ウィーンを占領。
- 1490年、マーチャーシュ没。
[編集] 兄の死とマーチャーシュの即位
フニャディ・ヤーノシュには長子ラースローがあり、ヤーノシュとともに従軍して1456年のベオグラードの戦勝にも功績があった。しかしヤーノシュの死後、ハンガリー貴族の内紛に巻き込まれてラースローは処刑されてしまう(作曲家エルケル・フェレンツに、この事件を題材にした『フニャディ・ラースロー』というオペラ作品がある)。その結果、次子のマーチャーシュに大貴族と対立する中小貴族の支持が集まり、ハンガリー王に選出された。
[編集] 対外政策
オスマン帝国と対抗するワラキア公ヴラド3世(ヴラド・ドラキュラ)とは同盟関係にあったが、弟のラドゥと国内離反貴族に追われたヴラドがトランシルヴァニアに逃げ込むと、オスマンに内通したとしてヴラドを捕らえ、幽閉する。事実は逆で、ラドゥこそが親オスマン勢力であった。しかし、マーチャーシュは十字軍を放棄するための口実としてヴラドを利用し、このために幽閉中もヴラドの残虐性をことさら広めたといわれる。その間にヴラドはマーチャーシュの妹マーリアと結婚し、1475年にオスマン軍がモルダヴィアへ攻め込むと、ようやく解放されてワラキアに戻った。このように、オスマン・トルコの伸長に対しては直接兵を向けて阻むことが少なかった。
一方、マーチャーシュはオーストリア、ボヘミア方面に進出し、一時はウィーンを陥落させるなど、ハンガリー最大の版図を実現した。1479年には実質的なオーストリア大公に選出された(オロモウツの和約)。ハプスブルク家を追い出した後には、さらに神聖ローマ皇帝位を狙っていたといわれる。しかし、49歳で急死したためにその望みは果たされなかった。また、マーチャーシュの死によって、抑えられていた大貴族たちの専横が再び強まり、強力を誇った王軍も弱体化、モハーチの戦い(1526年)でハンガリーはオスマン帝国に決定的な敗北を喫することとなる。
[編集] ルネサンス文化の奨励
マーチャーシュは、イタリアから建築家や文化人を首都ブダの王宮に招き、ハンガリーの若者を外国留学させるなどして文化を奨励した。こうしてブダは、ルネサンス文化の一中心地として栄えた。ポジョニ(現ブラチスラヴァ)に大学を設立。王立図書館にはコルヴィナ文庫として知られる写本が2000巻集められた。
[編集] マーチャーシュ教会
マーチャーシュ教会はブダ王宮の丘に立つ聖母教会で、13世紀ベーラ4世によってゴシック様式で建築された。マーチャーシュが教会を増築し、ここで2度結婚式を挙げたことから、後世マーチャーシュ教会と呼ばれるようになった。歴代のハンガリー王がこの教会で戴冠式を執り行った。16世紀にオスマン帝国がハンガリーを占領すると、モスクとして使用され、17世紀にオスマン軍が撤退するとすぐにカトリック教会に戻された。一時バロック様式に建て替えられたが、1874年から1896年にかけて建築家シュレック・フリージェッシュが改築し、ゴシック様式を復元した。
[編集] マーチャーシュにまつわる伝説
マーチャーシュは身分を隠してしばしば国内をまわったと言い伝えられている。日本の『水戸黄門』のようなイメージである。マーチャーシュ配下で、大剣を両手で自在に操ったという豪傑キニジ・パール[1]は、王が「お忍び」中、水車小屋で休んでいるときに、大きな岩を盆の代わりにして水を差しだし、これが縁となってマーチャーシュに臣従したという伝説がある。
[編集] 外部リンク
|
|
|