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ベネディクト・アーノルド - Wikipedia

ベネディクト・アーノルド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Benedict Arnold
Benedict Arnold

ベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold,1741年1月14日 - 1801年6月14日)は、アメリカ独立戦争での大陸軍将軍である。ニューヨークのウェストポイント砦でイギリス軍への降伏を画策したことで知られている。

目次

[編集] 生い立ち

アーノルドは、1741年コネチカットのノリッジで父親ベネディクト・アーノルド3世と母親ハンナ・ウォーターマン・キングの6番目の子供として生まれた。彼の名前はロードアイランド植民地の知事を務めた曾祖父と、幼くして逝った兄の名前に因んでいる。彼と姉のハンナだけが成人し、他の兄弟は黄熱病で夭折した。母方の祖母は、少なくとも4人のアメリカ合衆国大統領ユリシーズ・S・グラントフランクリン・ルーズベルトジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュジョージ・ウォーカー・ブッシュ)の祖先にあたるジョン・ラスロップの子孫である。

アーノルド家は裕福だったが、父親が事業に失敗して負債を抱えてしまった。その頃から父親はアルコールに依存してしまった。彼は教育費を払うのにも困ってアーノルドが14歳のときに学校を辞めさせてしまった。 父親が酒浸りとなり健康を害したために、家業で鍛えることもできないため、アーノルドは母親のコネで彼女の従兄弟ダニエル・ラスロップとジョシュア・ラスロップの所に奉公に出された。2人はノーウィックで薬局などを営んでいた。

[編集] フレンチ・インディアン戦争

15歳の時、アーノルドはコネチカット民兵に志願し、フランスのカナダからの侵略(フレンチ・インディアン戦争)に対し、オルバニージョージ湖に進軍、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いに参加した。

ここでイギリス軍は、ルイ・ジョセフ子爵指揮下のフランス軍に屈辱的な大敗を喫した。イギリス軍の降伏に続いて、フランスの同盟インディアンはイギリス軍と植民地軍が提示した降伏条件を知って激怒した。イギリス軍は頭皮、武器などの戦利品を約束したが、何も実行されなかった。イギリス軍は捕虜となって護送中に180人以上が虐殺された。フランス正規軍はそれを止めることができなかった。このできごとは、若く多感であったアーノルドにフランスに対する変わらぬ憎しみを植え付け、彼の後の人生に影響することになる。

[編集] 両親の死

1759年アーノルドが特に愛していた母が亡くなり、まだ若い彼が酒浸りの父と若い姉を扶養することになった。父のアルコール依存症は母の死後さらに悪化した。彼は白昼酔っぱらって何度か拘束までされており、教会への出入りも止められた。父は1761年に亡くなり、20歳のアーノルドは家名を昔のように上げる決心をした。

[編集] 独立戦争前の行動

1762年、ラスロップの助けもあり、アーノルドはニューヘイブンで薬剤師と本屋として実績を上げ始めた。アーノルドには大望があり、積極的だったので、商売は急速に拡大した。1763年には、彼の父が負債の形に売り払っていた家産を取り戻した。さらに1年後、十分な利益を出してそれを売り払った。1764年、彼はニューヘイブンの若い商人アダム・バブコックと共同経営者になった。彼の家産を売った時に得た利益を元手に彼らは3隻の商船を買い、有利な西インド諸島貿易に乗り出した。この間、姉のハンナをニューヘブンに連れてきて、彼が留守でも薬局をやっていけるようにした。彼は自分の船を指揮してニューイングランドからケベック、西インド諸島まで商用で旅した。

1765年印紙法は植民地での商売をひどく制限した。アーノルドは当初特に大衆運動に加わらなかった。多くの商人と同じで、印紙法など存在していないかのように商売を続け、実のところ法律を無視して密貿易業者のようになっていた。1767年1月31日の夜、アーノルドはイギリス議会の押しつける法律と植民地を抑圧する政策に抗議するデモに加わった。その地方に派遣されていたイギリスの事務官を象った人形が燃やされた。彼とその船の乗組員が密貿易を密告した疑いのある男にけがをさせた。アーノルドは平和を脅かした罪で逮捕され50シリングの科料を払わされた。政府によって課された抑圧的な税金のために、多くのニューイングランド商人が廃業に追い込まれた。アーノルド自身も個人破産に近い状態になり、15,000ポンドの借金を抱えた。

アーノルドはホンジュラスで彼のことを「ばかなヤンキー、恥も外聞も知らぬ奴め」と罵ったイギリスの船長と決闘した。アーノルドは彼の不躾さと決闘を挑まれたことにショックを受けた。その船長が傷つき、彼に謝らせられた。アーノルドは、1770年3月5日ボストン虐殺事件が起こったとき西インド諸島にいたが、後に「大変な衝撃だった」と書き、「神よ、大陸の人間はみんな眠らされて従順に自由を放棄したのか、あるいはあんな悪党達に仕返しもできない哲学者になってしまったのか」と嘆いた。

1767年2月22日、彼はサミュエル・マンスフィールドの娘マーガレットと結婚した。ベネディクト、リチャード、ヘンリーと3人の息子に恵まれたが、妻は1775年6月19日に亡くなった。

[編集] アメリカ独立戦争

1775年3月、ニューヘイブンの市民が65名でコネチカット防衛第2中隊を結成した。アーノルドはその指揮官に選ばれ、戦争に備えて訓練・鍛錬をおこなった。レキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まったという知らせがニューヘイブンに届いたのは4月21日だった。イェール大学の学生からも防衛隊への志願者が現れて兵士を増やし、中隊は革命運動に加わるためにマサチューセッツに行軍を開始した。

途上でアーノルドはコネチカットの議員サミュエル・ホールデン・パーソンズ大佐に会った。二人の対話の中で、革命軍に大砲が不足していること、シャンプレーン湖タイコンデロガ砦に多くの大砲があること、その砦を確保するために遠征隊を派遣すべきことなどを話し合った。パーソンズはハートフォードに向かい、エドワード・モット大尉に指揮を任せる軍隊結成のため、資金を調達した。モットは、バーモントのベニングトンで活動するイーサン・アレンとそのグリーン・マウンテン・ボーイズと連携を取るよう命令された。一方、アーノルドはマサチューセッツの安全委員会[1]を説得し、砦を奪取するための遠征資金を認めさせた。安全委員会はアーノルドをマサチューセッツ民兵の大佐に任命し、マサチューセッツで軍隊を組織すべく数人の大尉をアーノルドの下に付けて派遣した。大尉達が兵士を集める間に、アーノルドは北に向かってアレンと落ち合い作戦の指揮を執った。

[編集] タイコンデロガ砦の戦い

詳細はタイコンデロガ砦を参照

5月始めに部隊は結成された。1775年5月10日、早暁の攻撃で実際の戦闘を行うこともなくタイコンデロガ砦が落ちた。植民地の兵士はイギリス軍の守備兵の方が数が多かったことに驚かされた。続いてクラウンポイント、ジョージ砦を落とし、セントジョーンズ砦を襲撃した。しかし、イギリス軍がモントリオールから到着したとき、セントジョーンズ砦を放棄するしかなかった。この方面作戦を通じて、アーノルドとアレンは誰が全軍指揮を執るかについて議論が耐えなかった。アレンが自分の部隊を撤退させ、アーノルド一人が砦守備兵の指揮のために残った。しかし、コネチカットの兵士1,000名を連れたベンジャミン・ハイマン大佐が到着し、アーノルドを部下としてハイマンが指揮を執ることを伝えた。大陸会議によるこの処置はアーノルドを激怒させた。彼は革命のために行った彼の行動が認められていないと感じた。アーノルドはそこでの任務を辞退しマサチューセッツに戻った。[2]

[編集] ケベック遠征

詳細はカナダ侵攻作戦を参照

1775年6月大陸軍結成直後、北部方面軍の指揮官フィリップ・スカイラー少将がカナダ侵攻作戦を提案した。この作戦はシャンプレーン湖の北端にあるセントジョーンズ砦からリシュリュー川を下りモントリオールに至るものであった。その目的はニューヨーク北部を攻撃できる重要な基地から王党派の部隊を追い払うことだった。リチャード・モントゴメリー将軍がその部隊の指揮官となった。

アーノルドは別働隊の提案をした。これはメーンケネベック川を遡り、ショーディール川を下ってケベック市に至るというものであった。モントリオールとケベック市を手に入れれば、カナダフランス語を話す開拓者達がイギリスに対する革命に加わってくれるものとアーノルドは信じていた。ジョージ・ワシントン将軍と大陸会議がこの案を承認し、アーノルドをケベック市攻撃隊の大陸軍大佐に任命した。

メーンに向けて発つ直前に、アーノルドは彼の妻マーガレットの死を知らされた。彼はニューヘイブンに立ち寄り、子供達の面倒を見てもらう手配をした。彼の姉ハンナが母親代わりを務めることになった。

9月19日1,100の部隊がマサチューセッツのニューベリー港を出港し、9月22日、メーンのガーディナーストンに到着した。そこではリューベン・コルバーン少佐に前もって200隻の平底船を造るよう手配していた。これらの船はケネベック川とデッド川を遡り、ショーディール川を下ってケベック市に至る軍隊を運ぶためのものだった。分水嶺を超えてショーディール川までは、アパラチアを越えて船を運んでいく長い道のりがあった。

イギリス軍はアーノルドの接近を察知しており、セントローレンス川の南岸にある水上乗り物(ボート、船、大砲船など)の大半を破壊していた。フリゲートリザード(搭載大砲数26門)とスループハンター(搭載大砲数16門)が渡河を阻止するために常に哨戒していた。それにも拘わらず、アーノルドは十分な量の船を購入し11月11日にケベック市のある対岸に渡った。しかしそこで彼の部隊がケベックを占領するには不足していることに気付き、援軍を頼むためにモントゴメリーに伝令を発した。

一方、リチャード・モントゴメリー准将は9月16日に1,700名の兵士を連れてタイコンデロガ砦から北に発進した。彼は11月13日にモントリオールを占領した。モントゴメリーが12月早々にアーノルドの部隊と合流し、総勢で1,325名となった。彼らは[[12月31日]、ケベック市を攻撃した。しかし、カナダの総督でイギリス軍の指揮官であったガイ・カールトンによって、大陸軍は惨敗を喫した。モントゴメリーは戦死しアーノルドは負傷した。多くの者が戦死または負傷し、何百もの者が捕虜となった。

残った者は350名ほどになり、アーノルドが指揮を執り、1776年の春まで無益な包囲を続けた。デイビッド・ウースター准将の援軍が到着し、指揮を交代したアーノルドは残った部隊とともにモントリオールに撤退した。[3] [4]

[編集] 昇進

アーノルドはカナダ侵攻作戦の後、准将に昇進し、イギリス軍がシャンプレーン湖を経由してハドソン川渓谷に侵攻してくることを阻止する任務を与えられた。1776年夏、アーノルドは湖を支配するために小さな戦闘艦と大砲船の船隊を造り上げた。イギリス軍はさらに大きな船隊を造り上げることで対抗した。10月のバルカー島の戦いでイギリス軍はアーノルドの船隊を打ち破った。しかしこの時はもう冬が始まっており、イギリス軍の侵攻が止まった。アーノルドの防衛戦略は成功したと言える。

この年アーノルドは、ボストンで良く知られた王党派の娘、ベッチー・デブロアと知り合った。彼女は当時ボストン一の美人と言われた。しかし、アーノルドがエンゲージリングを送った後でもデブロアは彼の求婚を拒絶した。[1]

[編集] 東部方面軍

1776年遅く、アーノルドはジョセフ・スペンサー少将が指揮する大陸軍東部方面軍の副官になった。12月8日、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍の指揮する大部隊がロードアイランドニューポートを占領した。アーノルドは一年以上も家族に会っていなかったので、ニューヘイブンで一週間を過ごし、1777年1月12日プロビデンスに到着しロードアイランドの防衛隊の指揮を執った。ロードアイランドの大陸軍は、ワシントンのトレントン攻撃に部隊を割いており、約2,000名に減っていた。アーノルドは15,000名のイギリス軍を眼前に置き、防御に徹した。

1777年4月26日、アーノルドは大陸会議の会合に参加するためフィラデルフィアに向かう途中、再び家族に会うためにニューヘイブンに立ち寄った。そこへ伝令が来て、イギリス軍のニューヨーク軍事長官ウィリアム・タイロン少将が2,000名の部隊を連れてノーウォークに上陸したことを知らせた。タイロンはロングアイランド湾に沿ってフェアフィールドに進軍し、内陸に入って大陸軍の大きな物資倉庫のあるダンベリーを攻めた。どちらの町も火に包まれた。タイロンはノーウォークの港にも火を付け海から撤退した。

アーノルドは急遽地元の志願兵100名を集めた。彼は東コネチカット民兵500名を集めたゴールド・S・シリマン少将とデイビッド・ウースター少将の部隊に合流した。

アーノルド達はダンベリーの近くに移動し、イギリス軍の撤退を妨害しようとした。4月27日午前11時、ウースターの部隊がタイロンの後衛を捉え戦闘に入った。アーノルドはリッジフィールド郊外の農園に移動し、イギリス軍の撤退を止めようとした。それに続く小競り合いの間にウースターが戦死した。アーノルドも彼の馬が撃たれて倒れたときに足に傷を負った。

[編集] フィラデルフィア

ダンベリーでの戦いの後、アーノルドはフィラデルフィアへの移動を再開し、5月16日に到着した。この時、スカイラー将軍もフィラデルフィアに居たが直ぐに本部のあるオールバニーに戻った。このことでフィラデルフィア地区ではアーノルドの位階が最上位となり、そこの指揮を執るものと思われた。しかし、大陸会議はペンシルバニアの新しく昇進したトマス・ミフリン少将の方を好んだ。アーノルドは以前にも昇進を見送られていた。このことでアーノルドの不満は募った。アーノルドは7月11日にそこでの任務を辞した。その直後、ワシントン将軍がアーノルドに北方方面軍の任務に就くよう要請してきた。このときタイコンデロガ砦がイギリス軍の手に落ちていた。このことはワシントンの指揮官としてのアーノルドに対する信頼を表しており、大陸会議もワシントンの要請を認めた。

[編集] サラトガ

詳細はサラトガ方面作戦を参照

1777年の夏は独立戦争の転換点となった。サラトガ方面作戦は、ニューヨーク北部のオールバニー近辺で戦われた一連の戦闘であり、サラトガの戦いでの大陸軍の勝利と、ジョン・バーゴイン率いるイギリス軍の10月17日の降伏で終わった。アーノルドはこれらの戦闘で大きな役割を演じた。

ベミス高地の戦いがサラトガ方面作戦の最後の戦闘であった。数的に劣り、補給物資が不足し、退路を断たれた(多くはアーノルドの功績)バーゴインは降伏するしかなかった。

ベミス高地の戦いで、アーノルドはケベックの時と同じ足(および臀部の下)を負傷した。結果論でいえることであるが、もしこの時彼が急所を撃たれて死んでいたら、英雄のまま記憶され裏切り者と呼ばれることはなかったであろう。

歴史家はサラトガ方面作戦の結果に対してアーノルドが演じた最も功績ある役割を否定しない。その勇気と独創性と軍事的な冴えをである。アーノルドはバーゴインがベミス高地での決戦から逃れようとする試みを独力で阻止したと言われる。しかし、アーノルドとホレイショ・ゲイツ将軍との間の感情的亀裂のために、アーノルドは信頼されなかった。アーノルドがサラトガの最終戦闘で勝利する一番の立役者であったとしても、ゲイツは彼の権限を越え命令を無視した者として彼を非難した。アーノルドは用心深く常套的なゲイツの戦術を軽侮していることを隠さなかった。

[編集] フィラデルフィアでの指揮

10月中旬、サラトガで受けた傷の治療のため、アーノルドはオールバニーの病院に入院した。彼の左足は利かなくなったが、その切断は許さなかった。悩ましい数ヶ月の後、左足は右足よりも2インチ(5 cm)短くなって残った。彼は1777年から1778年の冬にかけて、傷の快復を待ちながらバレーフォージで過ごした。

1778年6月、フィラデルフィアからイギリス軍が撤退し、ワシントンはアーノルドをその町の軍事指揮官に任命した。この頃、アーノルドはフランスとアメリカの同盟を知った。フレンチ・インディアン戦争 での苦い経験があったので、かれはこの同盟に強く反対した。皮肉にもフランス王ルイ14世をしてアメリカと同盟を結び戦争に協力することに同意させた契機は、アーノルドが決定的な役割を演じたサラトガの勝利だった。

この頃までにアーノルドは昇進を見送られ、戦時の負債を認めてくれなかった大陸会議への不満がさらに強くなっていた。彼はカナダ侵攻作戦の時の費用の大半を自分で賄っていた。アーノルドはフィラデルフィアの社交界に身を投じ、大きなパーティを主催した結果、負債もふくらんでいた。アーノルドの浪費の結果が無理な財政計画となり、彼の財政状態を調べた大陸会議の信頼をさらに損なうことになった。しかもアーノルドはフィラデルフィア当局から汚職の嫌疑で告訴されていた(ある男の教唆でアーノルドはタイコンデロガ砦の指揮官を罷免していた)。

1779年6月1日、アーノルドは背任罪で軍法会議に掛けられた。「びっこになっても私は国のために尽くした。こんな感謝の心もない仕打ちを期待していただろうか」とアーノルドはワシントンにこぼしている。

1779年3月26日、アーノルドはペギー・シッペンと出会った。彼女はエドワード・シッペン判事の娘で陽気な18歳であった。4月8日、アーノルドとペギーは結婚した。ペギーはイギリス軍がフィラデルフィアを占領している間に、イギリス軍の少佐ジョン・アンドレから求婚されたことがあった。

[編集] ウェストポイント

1780年7月、アーノルドは志願してウェストポイント砦の指揮官となった。彼は既にジョン・アンドレ少佐を通じてイギリス軍ニューヨーク駐屯軍の司令官ヘンリー・クリントン将軍と連絡を取り始めていた。また王党派軍の著名な指揮官であるビバリー・ロビンンソンとも親交を深めていた。1780年9月、アーノルドはイギリス軍にハドソン川の支配権を与え13植民地を分断してしまう計画を作った。アーノルドはイギリス軍に20,000ポンドとイギリス軍の部隊指揮を任されるという条件で、砦を明け渡すことを提案した。彼の計画は挫折した。アーノルドの署名のある通行証を持ったアンドレが捕捉され、しかも計画を明かす文書を持っており、それはアーノルドの罪を示すものだった。アンドレは兵士の死として銃殺を求めたが容れられず、スパイとして絞首刑に処せられた。

アーノルドはアンドレの逮捕を知ってイギリス軍に逃げた。 ジョン・ボーンズの支援もあって、ニューヨークのイギリス軍の撤退を助け、アーノルドはイギリス軍の准将の位を得た。イギリス軍は彼を准将に据えたが、計画が挫折したために報酬は6,000ポンドに減らされた。

[編集] イギリスへの奉仕

アーノルドはアメリカ大陸の戦場で活躍したが、イギリス軍は心底からの信用はしていなかった。12月にクリントンの命令で、アーノルドは1,600名の部隊を率いてバージニアに遠征し、リッチモンドを占領、南部植民地への物資輸送経路を遮断した。アーノルドは捕虜として捕らえた士官に、大陸軍がアーノルドを捕らえたらどうするだろうと尋ねた。その士官は答えた、「あなたの右足を切り取って軍葬の礼で埋葬します、そして残りの体を絞首台に掛けます。」

南部戦線では、チャールズ・コーンウォリス将軍が1781年5月にヨークタウンに撤退した。一方、アーノルドはコネチカットのニューロンドン占領のために北に向かった。これがジョージ・ワシントンの目をコーンウォリスから離すことになるという作戦であった。アーノルドの部隊は9月8日にコネチカットのグリスウォード砦を占領した。12月、イギリス政府の政策転換により、アーノルドは他の士官達とともにイギリスに呼び戻された。

[編集] アーノルドの死とその後の評価

ベネディクト・アーノルドは、1801年ロンドンで後悔の念を抱きながら亡くなったと言われる。彼の評価は、独立戦争の英雄としての賞賛と裏切り者として非難が、その死後200年以上経った今でも続いている。

ニューヨーク州ビクトリーに立つ戦勝記念碑にはサラトガの戦いで活躍した4人の英雄を顕彰する台座があるが、その内の1つは空白のままである。ベネディクト・アーノルドの名前を入れるためだと言われる。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ Louis Quigley (2001). "Treachery and Fidelity, The Love Letters of Benedict Arnold reveal a true heart" 1 June 2006閲覧.


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