カナダ侵攻作戦
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カナダ侵攻作戦 | |
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ケベック攻撃でのモントゴメリー将軍の死 (en:John Trumbull, 1786) |
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戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1775年 - 1776年 | |
場所:シャンプレーン湖 及び セントローレンス川渓谷 | |
結果:大陸軍の侵攻失敗 イギリス軍の反撃 | |
交戦勢力 | |
大陸軍 | イギリス軍 |
指揮官 | |
リチャード・モントゴメリー ベネディクト・アーノルド ジョン・サリバン |
ガイ・カールトン ジョン・バーゴイン |
カナダ侵攻作戦 (カナダしんこうさくせん、英:Invasion of Canada)は、アメリカ独立戦争中の1775年、大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。大陸軍から2つの遠征隊が派遣され後に合流したが、1775年12月のケベックの戦いで敗れた。イギリス軍は1776年に反撃を試み、大陸軍をタイコンデロガ砦まで押し戻した。この侵攻作戦の終了後、1777年のサラトガ方面作戦に続いた。
目次 |
[編集] 背景
1775年の春、レキシントン・コンコードの戦いを契機に、アメリカ独立戦争が始まった。その後すぐに戦況が膠着し、ボストンのイギリス軍に対する包囲戦が続いた。この状態の打開を模索した大陸会議は他の場所で主導権を取ろうとした。
大陸会議は以前にフランス系カナダ人を14番目の植民地としてアメリカ独立戦争に巻き込もうとしたが、失敗した。計画が変更され、元々フランスの植民地であったケベック(現在のケベック州とオンタリオ州)からイギリス軍を追い出すことにし、2つの遠征隊が発せられた。大陸会議は、カナダ遠征のための北方軍司令官としてフィリップ・スカイラー将軍を承認した。スカイラーはまず北方軍にリチャード・モントゴメリー将軍を送った。ジョージ・ワシントン将軍も支援部隊としてケベックシティに向けてベネディクト・アーノルドを派遣した。
[編集] モントゴメリー遠征隊
1775年8月16日、モントゴメリー准将はタイコンデロガ砦から約1,700名の民兵とともに北に発進した。モントゴメリーはセントジャン砦とその傍の町を包囲した。セントジャン砦はシャンプレーン湖の北端にあり、リシュリュー川を通ってカナダに入る要衝であった。砦にはチャールズ・プレストン少佐の指揮で300名の歩兵正規軍がおり、この植民地では最も防御を構えた町であった。8月31日、町を襲おうとした大陸軍は、砦の外に出たイギリス軍との小競り合いの結果押し返された。次の週、モントゴメリーは部隊を編成し直して長期包囲戦の準備を始めた。プレストンは、2,000名の部隊と共にモントリオールに駐屯しているガイ・カールトン将軍からの援軍を要請した。しかし、カールトンはケベックシティの安全を損なうことに気が進まず、援軍を送ることを拒絶した。この判断ミスによってカールトンはモントリオールを失い、後にはケベックシティで彼自身が包囲されることになる。
9月20日、大陸軍はイギリス軍の小さな前哨基地チャンブリー砦を落としたことで、プレストンを完全に孤立させた。セントジャン砦は毎日砲撃され、砦の中は着実に破壊されていったが、プレストンは砦の守備を続けた。結局、プレストンは10週間の包囲後の11月3日に、援軍のあてがなく、来るべき冬の厳しさに備えて住民の助命を望み降伏した。モントゴメリーは11月13日、抵抗を受けることもなくモントリオールに入った。カナダの総督でありイギリス軍の将軍でもあったガイ・カールトンがケベックシティに逃げ込んだので、モントゴメリーもケベックシティに向かった。
セントジャン砦の包囲戦での両軍の損害は軽微であったが、大陸軍は病気で約900名を失った。長い包囲戦の結果、大陸軍は冬に向かう時期にケベックシティに移動しなければならなくなり、しかもほとんどの志願兵はその年の末が兵役期間の終わりとなっていた。
[編集] アーノルド遠征隊
2番目の遠征隊はベネディクト・アーノルドに率いられた。大陸会議はアーノルドが立てたカナダ侵攻計画を大筋で認めたが、アーノルド自身はその実行部隊に組み入れられなかった。すげなくされたと感じたアーノルドはマサチューセッツのケンブリッジに戻り、ジョージ・ワシントンに接近して、ケベックシティを標的とした東からの支援部隊を送る案を提案した。6月のバンカーヒルの戦い以後、ボストンではほとんど戦闘が無い状態だったので、多くの部隊が駐屯任務に飽きてきており、戦闘することを望んでいた事もあって、ワシントンはアーノルドの提案に同意した。ワシントンはアーノルドを大佐に任命し、二人で守備隊を見て回り遠征隊の志願兵を募った。
アーノルドは最終的に750名の者を選出し、ワシントンはそこにダニエル・モーガンの部隊と他に何人かの狙撃兵を加えた。バージニアやペンシルバニアの荒れ地から来た開拓者達は、包囲戦よりも荒れ地での戦闘に向いているとの考えからである。ケベックに向けてケネベック川を遡る行程は20日の間に180マイル(290 km) 進む必要があった。アーノルドの遠征隊は、イギリス軍の指揮官カールトンがモントリオールでシャイラー軍に対抗するのに忙しいため、比較的抵抗もなく進めるものと予測していた。アーノルドはウェスターン砦に先乗り部隊を送り、物資とバトー(平底船)を用意させた。遠征隊は海を渡ってウェスターン砦まで5日で到着し、物資をまとめ船を準備した。
ガーディナーストンのコルバーン造船所で3日間滞在した。ここではリューベン・コルバーンがワシントンの要請に応えて15日間でバトーを造り上げていたが、このバトーは乾燥した材木が得られないために、切り出したばかりの松材で造られていた。部隊は9月25日にウェスターン砦を発した。その先は、ケネベック川を遡り、またショーディール川を下ってケベックに至ることが予定されていた。しかし用意されたバトーはオールで漕ぐことができず、竿をさして進むやり方だったため予定に狂いが生じることとなる。コルバーンは軍隊に同行し、バトーの修繕を繰り返したが、川を遡りまたショーディール川を下る過程で多くの物資と数人の人命が失われた上、雨や嵐が追い打ちを掛けた。この結果ロジャー・イーノス中佐の部隊300名が、その物資と共に退却する。遠征隊が持って行った地図はイギリス軍が将来の敵を欺くために出版した不正確なものであった。実際に予定された旅程は180マイルではなく、350マイル (560 km)あった。その結果、物資が枯渇してしまい隊員達は、連れて行った犬・靴・弾薬箱・皮・苔・樹皮などを食べざるをえなかった。遠征隊は11月6日にセントローレンス川の南岸に到着したが、その時点で1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。
しかし、この時点においてもアーノルドは町を奪取できると考えた。イギリス軍守備兵は、アレン・マクリーン中佐以下の正規軍約100名と、数百の装備が貧弱な民兵であり、大陸軍が正確な射撃で民兵を蹴散らしてしまえば、正規軍の数で大陸軍が優位に立てるからである。11月14日、アブラハム平原に着いた時に、アーノルドは白旗を掲げた交渉役を送ってイギリス軍の降伏を要求したが受け入れられなかった。大陸軍は防御を固めた町に向かい合ったが、フリゲート艦リザードが川に現れ大陸軍の背後を脅かしたので、一旦ポワントー・トレンブルまで撤退をすることになる。
12月2日、モントゴメリーがモントリオールから川を下り、300名の部隊とイギリス軍から捕獲した物資と冬の衣類を持ってきた。この2つの部隊は合流し、改めて町を攻撃する作戦が練られた。
[編集] ケベックの戦い
12月31日の午前4時に戦闘が開始された。アーノルドは自分の部隊を2手に分けた。アーノルドが総勢600名を率き連れて町の北側を攻撃し、モントゴメリーは300名の部隊で南側を攻撃した。2つの攻撃部隊はセントローレンス川に接する1点で落ち合い、そこから防壁の中へ突入する手筈だった。しかし、防御は非常に堅く力押しでは落ちなかった上、夜明け前に吹雪がはじまっていた。モントゴメリーの部隊は川沿いにケープダイアモンド稜堡の下を進んでいたが、30名のカナダ人民兵が籠もるバリケードに出くわした。戦端が開かれ、最初の一斉射撃でモントゴメリーが殺され、他にも多くが死傷した。大陸軍は吹雪の中では使えないマスケット銃しか持っていなかったので、反撃もうまくいかないまま川岸を退却した。
一方、アーノルドはモントゴメリーの戦死と攻撃失敗を知らないまま、北側のバリケードに向かったが、町の防壁を守るイギリス軍と民兵の反撃を受けた。ソルト・オ・マテローという名の通りにある道路バリケードで、アーノルドはマスケット銃の弾を左くるぶしに被弾し後方に搬送された。アーノルドに代わり副官のダニエル・モーガンが指揮を執ってこの道路バリケードを突破した。しかし次の命令を待つ間に、大陸軍は通りや近くの家の中の民兵の攻撃にさらされ、イギリス軍の反撃でバリケードが再度奪取された事で、モーガンと彼の部下が狭い通りに孤立しまい、モーガン部隊は降伏した。10時までにモーガン以外にも町に取り残されていた部隊が降伏し、戦闘が終わった。
この戦闘でアーノルドの部隊は30名以上が死亡し(他にも春の雪解け後に20名以上が発見され、凍結した川を越えて逃げる間に数名が溺れた)、モーガン以下426名が捕虜となった。モントゴメリーの部隊では少なくとも12名が南の川岸で死傷した。一方、イギリス軍の被害は、指揮官ガイ・カールトンによると、海軍士官1名とフランス系カナダ人民兵5名の死亡、正規軍兵士4名と民兵15名の負傷であった。
アーノルドは、兵力比が3対1になったがケベック包囲を続けたが、1776年の1月1日に兵役期間が終わった志願兵の大量脱走が発生した。3月にジョン・トーマス将軍に率いられた大陸軍の援軍が到着し、総勢は2,000名まで回復した。しかし、この大陸軍がケベックシティに新たな攻撃ができない内に、5月6日今度はイギリス軍に8,000名以上の援軍が到着してしまい、大陸軍は包囲を解いてニューヨーク植民地に撤退した。
[編集] カールトンの反撃
1776年5月、イギリス海軍の艦船がケベックシティに到着し、イギリスのカナダ駐在軍は、ジョン・バーゴイン将軍指揮下の部隊とブランズウィック公国からのドイツ人傭兵部隊で補強された。大陸軍の新しい指揮官トーマス将軍は天然痘で死んだので、この時大陸軍はジョン・サリバンが指揮しており、既にモントリオールに向けて撤退を開始していた。カールトンが追撃を開始したので、サリバンもモントリオールへの道筋半ばにあるトロワ・リバーズで反撃することにした。ここでサリバンの部隊は職業軍人で占められるイギリス軍に敗北したものの、慎重すぎるカールトンの行動もあり、部隊の多くはモントリオールまで撤退することができた。
イギリス軍の攻撃は春中モントリオールの郊外で続けられ、レ・セドルとボードルーイュでほぼ500名の捕虜を捕らえた。これにより、この地域の占領ができなくなったアーノルドは、6月15日にモントリオール市内に放火した後、モントリオールを放棄した。このときアーノルドは「ここは諦めよう。遅くならないうちに我々の国を確保しておこう」と、サリバンに書き送っている。
カールトンは追撃を続け、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドを破った。アーノルドはタイコンデロガ砦まで撤退し、結局振り出しに戻ったことになった。カナダ侵攻作戦は大陸軍にとって散々な結果になったが、アーノルドはシャンプレーン湖に即席で海軍を造り上げ、1777年のサラトガ方面作戦までイギリス軍の全面的な反撃を遅らせた。カールトンは大陸軍のカナダからの撤退を徹底して追撃しなかったために、ロンドンで厳しく批判されることとなり、1777年にカナダ駐屯軍の指揮官はバーゴイン将軍に変更された。
[編集] 参照
- Bird, Harrison. Attack on Quebec. New York: Oxford University Press, 1968.
- Codman, John. Arnold's Expedition to Quebec. New York, 1902.
- Desjardin, Thomas A. Through a Howling Wilderness: Benedict Arnold's March to Quebec, 1775. New York: St. Martin's Press, 2006. ISBN 0-312-33904-6.
- Hatch, Robert McConnell. Thrust for Canada: The American Attempt on Quebec in 1775?1776. Boston: Houghton Mifflin, 1979. ISBN 0-395-27612-8.
- Roberts, Kenneth. March to Quebec. New York, 1938; revised 1940.
- Shelton, Hal T. General Richard Montgomery and the American Revolution: From Redcoat to Rebel. New York: New York University Press, 1994. ISBN 0-8147-7975-1.
- Smith, Justin H. Arnold's March to Quebec. New York, 1903.
- Smith, Justin H. Our Struggle for the Fourteenth Colony. 2 volumes. New York, 1907.