ボストン方面作戦
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ボストン方面作戦 | |
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バンカーヒルの戦いでのウォーレン将軍の死 by John Trumbull |
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戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1774年 - 1776年 | |
場所:マサチューセッツ | |
結果:ボストン地区からのイギリス軍の撤退 | |
交戦勢力 | |
大陸軍 | イギリス軍 |
指揮官 | |
イズラエル・パットナム ジョージ・ワシントン |
トマス・ゲイジ ウィリアム・ハウ |
ボストン方面作戦(ぼすとんほうめんさくせん、英:Boston campaign)は、アメリカ独立戦争の最初期の一連の戦いである。独立戦争の引き金となったレキシントン・コンコードの戦い、ボストン包囲戦、バンカーヒルの戦いが含まれる。1776年3月17日(現在マサチューセッツ州の開放記念日)のイギリス軍のボストン撤退で終わる。
目次 |
[編集] 背景
ボストンのイギリス軍の占領は1768年10月に始まった。1770年3月5日のボストン虐殺事件で緊張感が高まり、1773年12月16日のボストン茶会事件でさらに最高潮に達していた。
[編集] 開戦
1774年のマサチューセッツ統治法により、イギリス議会はマサチューセッツ地方政府を事実上廃止した。トマス・ゲイジ中将が既に北アメリカ駐在イギリス軍の総司令官であったが、マサチューセッツ総督にも指名され、イギリス王ジョージ3世からは問題の多い植民地に王権への忠誠を強いるよう指示が出された。しかし、大衆の反抗によって新しく指名されたマサチューセッツの王室関係者が辞職を強要され、あるいはボストンへの避難をせざるを得なくなった。ゲイジはボストンの彼の本部からイギリス正規軍4個連隊を派遣したが、一帯は愛国者達の手に握られていた。
1774年9月1日、ボストンの近郊でイギリスの兵士が抜き打ちに火薬やその他の軍需物資を押収した。この行動で辺りに警鐘が鳴り、アメリカの愛国者たちが戦争が近いことを恐れて素早く行動に移った。これは誤った警鐘だと分かったのだが、この火薬警鐘としてしられる動きがすべての関係者に慎重にことを運ぶようにさせ、7ヵ月後の出来事の舞台稽古をさせたことになった。
1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍が900名の兵士を派遣してコンコードの民兵が保管していた軍需品を押収した。ポール・リビアーなどの民兵が馬で周辺に警告を触れて回り、イギリス軍が4月19日の朝にレキシントンに入ったとき、75名の民兵が村の共有地に集まっているのを見つけた。銃火が交わされ、イギリス軍がコンコードに戻ったときもまた戦闘が起こった。赤服(イギリス兵がそう呼ばれていた)が帰還しようとするときまでに、数千人の民兵が道に集まっていた。追撃戦が起こり、イギリス軍の部隊は大きな損害を出した。レキシントン・コンコードの戦いで「銃声が世界を動かし始めた」。戦争の始まりであった。
[編集] ボストン包囲戦
その後、数千の民兵がボストンに集まり始めた。ボストン包囲戦の始まりである。5月遅く、ゲイジは海から4,500名の増援を受け、3人の将軍が到着した。独立戦争で大きな役割を果たす将軍達は、ウィリアム・ハウ、ジョン・バーゴイン、ヘンリー・クリントンである。彼らは、局面を打開する作戦の策定に着手した。
[編集] ボストンのイギリス兵
ボストンのイギリス正規兵はボストン市民にもまた指揮官にも憎まれていた。1774年から5年にかけての冬は長く厳しいものだったので、ゲイジ将軍は食糧不足に対処するため塩を配給制とした。清水の供給すらままならず悪臭を放っていた。チフスやジフテリアで多くの兵士が死んだ。その冬の唯一安価な品はラム酒だった。アルコールに起因する病気で死んだ兵士もいた。ラム酒欲しさにマスケット銃を売り払うものもいたが、これには鞭打ち500の刑が待っていた。脱走が日常茶飯のことであったが、兵士が耐えていた困難さを考えればまだ少ないことだとも言えた。ゲージは市中の警戒を強化したが、愛国者の暴動を抑えるよりも兵士を止めておくためだった。愛国者の指導者達は脱走兵にニューハンプシャーの300エーカーの土地を約束したが、ほとんどの正規兵達はその指揮官もボストン市民も憎んでおり、その武装した仲間に忠実であろうとした。
[編集] バンカーヒル
1775年6月17日、ハウ将軍率いるイギリス軍がバンカーヒルの戦いでチャールズタウン半島を占領した。戦闘は技術的にはイギリス軍の勝利だったが、犠牲も大きく攻撃を続けられなかった。ボストン包囲を破れなかったゲイジ将軍は間もなくハウ将軍に総司令官の地位をすげ替えられた。
[編集] 包囲の終了
1775年7月、新しく大陸軍の指揮官に任命されたジョージ・ワシントン将軍がボストン郊外に到着した。膠着状態がその年の秋、そして冬も続いた。1776年3月早く、タイコンデロガ砦の戦いで大陸軍が捕獲した大砲がボストンに運び込まれた。これにはヘンリー・ノックスの困難さを克服する働きがあった。大砲がイギリス軍を見下ろすドーチェスター高地に据えられると、ハウの軍隊は耐え難いものになった。イギリス軍は1776年3月17日にボストンから撤退し、ノバ・スコシアのハリファックスに一次待避した。市民兵は解散し、4月にワシントンはニューヨークを守るためにその軍の大半を移動させた。