ジョン・バーゴイン
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ジョン・バーゴイン(John Burgoyne,1723年2月24日 - 1792年8月4日)は、18世紀のイギリスの軍人(将軍)、政治家である。
若い頃に軍隊に入隊し、軽騎兵の導入に功績があった。アメリカ独立戦争ではイギリスの司令官として指揮するが1777年10月のサラトガの戦いでの敗戦で知られる。劇作家としても知られる。1743年に結婚した妻、シャーロット・スタンリー(Lady Charlotte Stanley)の父は11代目ダービー伯爵である。
[編集] 伝記
ジョン・バーゴインは1722年2月22日にロンドンに近いサットンで生まれた。ニックネームは「紳士のジョニー」だった。1743年、バーゴインはその負債に見合う士官勤務を命じられ、その後7年間を海外で暮らした。ダービー伯の干渉によりバーゴインは七年戦争の開戦とともに復職させられ、1758年には近衛歩兵の隊長兼中佐になった。1758年から1759年にかけて、バーゴインはフランス海岸への遠征に従軍し、後年、イギリス陸軍に軽騎兵を導入する主導者となった。軽騎兵2個連隊が創出されエリオット(後のヒースフィールド卿)とバーゴインが指揮した。1761年、バーゴインはミッドハースト選出の国会議員となり、翌年、ポルトガルに准将として従軍し、バレンシア・ダルカンターラとビラ・ベルハの占領で名声を勝ち取った。1768年、バーゴインはプレストン選出の国会議員となり、以後数年間は議員の職に専念することになった。この期間、バーゴインははっきり物を言うことで注目されるようになり、特にクライブ卿に対する論難で名を上げた。この同じ時期に、バーゴインは芸術や劇にも興味を示した(バーゴインの最初の戯曲「オークスの女中」は1775年にデイビッド・ガーリックによって上演された)。
軍隊では少将に昇進したバーゴインは、国王ジョージ3世にガイ・カールトン将軍の落ち度を説き付け、その後任となった。1777年、バーゴインはカナダからアメリカ植民地に侵攻する作戦(サラトガ方面作戦)の指揮官となった。緒戦でバーゴインはタイコンデロガ砦を落し、この功績で中将に昇進した。その後、エドワード砦を落し、さらにオールバニに向けて前進したが、カナダからの補給が途絶しサラトガでホレイショ・ゲイツ指揮する大部隊に取り囲まれた。1777年10月17日、バーゴインは5,800名の将兵と共に武器を置いて降伏した。これは植民地軍にとっては最大の成功となり、アメリカ独立戦争の転換点となった。バーゴインに対するイギリスの憤慨は最高潮に達した。バーゴインは直ぐに釈放されて本国に戻り、その行為の釈明のために軍法会議を要求したが容れられることはなかった。バーゴインは軍務と政務から離れることになった。
しかし1782年、バーゴインの政治家時代の友人が権力を握ると、バーゴインを元の階級に復帰させ、アイルランドの総司令官と枢密院顧問の地位を与えた。1783年にロッキンガム政権が崩壊すると、バーゴインはより強く私的生活に引き込むようになった。バーゴインが行った最後の公的活動はウォーレン・ヘースティングズの弾劾に参加したことであった。
バーゴインの晩年は主に文学や劇作に向けられた。バーゴインの喜劇「女相続人」は1786年に出版されると1年の間に10版を重ね、数ヶ国語に翻訳された。
バーゴインは1743年にダービー伯の娘、レディー・シャーロット・スタンレーと駆け落ちしたが、シャーロットはバーゴインがカナダに行っていた1776年6月7日に死んだ。バーゴインはオペラ歌手のスーザン・コーフィールドと再婚し、4人の子を設けた。そのうちの長男は後に陸軍元帥となったジョン・フォックス・バーゴイン卿である。バーゴインは1792年8月4日に亡くなり、ウエストミンスター寺院に埋葬された。