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チャールズ・コーンウォリス - Wikipedia

チャールズ・コーンウォリス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

チャールズ・コーンウォリス
チャールズ・コーンウォリス

チャールズ・コーンウォリス(Charles Cornwallis, 1st Marquess Cornwallis,1738年12月31日 - 1805年10月5日)は、イギリス軍の将軍であり、植民地の知事を務めた。アメリカ独立戦争の時の1781年ヨークタウンの戦いでアメリカ-フランス連合軍に、彼の指揮するイギリス軍が敗れたのが事実上の終戦と考えられている。インドでは総督を2期務め、永世植民地を定めたことでも知られる。

目次

[編集] 生い立ち

コーンウォリスはチャールズ・コーンウォリス男爵(後に伯爵)の長男としてロンドンのグロブナーで生まれた。

コーンウォリスは財産にも血縁関係にも恵まれていた。コーンウォリス家は14世紀にサフォークのアイの近くブロームホールに基盤を置き、以後300年間に一族を郡の代議士として国会に送っている。1627年にフレデリック・コーンウォリスが準男爵となり、チャールズ1世のために戦い、チャールズ2世は追放に追いやっている。フレデリックはさらに1661年に男爵となり、その子孫は婚姻によって重要性を増した。

コーンウォリスの母エリザベスはチャールズ・タウンゼンド子爵の娘であり、ウォルポール首相の姪でもあった。彼の父が1753年に伯爵となり、子爵も兼ねた。彼の弟ウィリアムは海軍提督であり、叔父のフレデリックはカンタベリー大司教であり、もう一人の叔父エドワードはカナダの植民地の指導者であった。

フリーメーソンだったと信じられているが、確証はない。

[編集] 軍隊での経歴

コーンウォリスはイートン校で学んだ。ここではホッケーをやっているときの事故で目に傷を負っている。続いてケンブリッジのクレア・カレッジに進んだ。1757年12月8日、近衛歩兵第一連隊の旗手が最初の任務であった。軍人としての経歴がここから始まり、プロシアの士官ログイン大尉と大陸を旅行した後、チューリンの陸軍士官学校で学んだ。1760年1月国会の代議士となり、1762年には父の伯爵を継いだ。

7年戦争の間、ドイツで様々なポストを4期務め、帰国後、1758年グランビー卿の参謀将校になった。1765年には、第85歩兵連隊に所属し、ミンデンの戦い後大尉に昇進した。

1771年、再びドイツに出征し、第12歩兵連隊に所属、中佐に昇進。1771年6月15日から16日にかけてのフィリングハウゼンの戦いで1隊を率い、勇猛さで注目された。

[編集] アメリカ独立戦争

ヨークタウンのコーンウォリス将軍包囲
ヨークタウンのコーンウォリス将軍包囲

アメリカ独立戦争の勃発により、1776年1月1日、コーンウォリスは志願して従軍。3月に2,500名の部下とともにヘンリー・クリントン将軍のもとに向かった。

1777年1月2日から4日、ニュージャージープリンストンで、ジョージ・ワシントン率いる大陸軍と戦った。大陸軍はコーンウォリスの分遣隊を急襲し、主力部隊が到着するまで攻撃を続けた。この最初の遭遇の後、コーンウォリスが逆襲を掛ける前に夜陰に紛れて逃亡した。プリンストンの戦いは一般には大陸軍の勝利と言われているが、小競り合いの連続であり、決定的な勝敗はついていない。

1780年、コーンウォリスはカロライナのイギリス軍を率いてナサニエル・グリーンと対峙した。コーンウォリスの軍隊はここで大きな損害を受けた。サウスカロライナではフランシス・マリオンに率いられた大陸軍にゲリラ的な奇襲作戦で苦しめられた。グリーン将軍はマリオンのイギリス軍疲弊戦術をうまく利用した。コーンウォリス軍はキングスマウンテンの戦いカウペンスの戦いで、大きく損失を被った。コーンウォリスとグリーンは1781年ギルフォード郡庁舎の戦いで戦火を交えている。この戦いはイギリス軍が勝ったが損失も大きかった。コーンウォリスはカロライナでの作戦を諦め、援軍を待つためにバージニアヨークタウンに撤退した。

コーンウォリスが帝国海軍からの補給を待っている間に、大陸軍の指揮官ワシントンは、フランス海軍が初めて参戦して来たことを知り、コーンウォリスの今の状態が誰もが認めるような勝利を得るチャンスを与えていると感じた。ヨークタウンの戦いではフランス・アメリカ連合軍がコーンウォリス軍を攻撃する一方で、フランス海軍がイギリス海軍の到着を阻んだ。1781年10月19日、コーンウォリスの使者がワシントン軍に対する降伏を伝えた。彼自身は病気を理由に調印式には出ていない。

コーンウォリスはイギリス軍の4分の1を率いていたに過ぎないので、コーンウォリスの降伏は即戦争の終結を意味していたわけではない。しかし、イギリスの世論は直ぐに平和の方へ傾いていった。戦いは続いたが大きな意味のあるものではなかった。1783年、休戦とイギリス軍の全面撤退が決まった。降伏とそれに続く戦争終結の責任はコーンウォリス個人のものであるが、敗戦に対する母国からの非難は、コーンウォリスの上官であり、安全なニューヨークにいたヘンリー・クリントン将軍に集まった。

[編集] その後

コーンウォリスは1798年アイルランド総督になったが、その直後にアイルランド共和派の反乱が起こった。バリナムックの戦いの後のバリナリーにおける囚人戦争の遂行によって、彼の名は今日まで残る悪評を得た。

[編集] 関連項目


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