プリンストンの戦い
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プリンストンの戦い | |
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プリンストンでのマーサー将軍の戦死 |
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戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1777年1月3日 | |
場所:プリンストン | |
結果:大陸軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大陸軍 | イギリス軍 |
指揮官 | |
ジョージ・ワシントン, ヒュー・マーサー†, ジョン・ハスレット†, ナサニエル・グリーン, |
チャールズ・コーンウォリス, チャールズ・モーフード |
戦力 | |
4,600 | 1,200 |
損害 | |
死者30、傷者75 | 死者18、傷者58、捕虜200 |
プリンストンの戦い(プリンストンのたたかい、英: Battle of Princeton )は、アメリカ独立戦争中の1777年1月3日に、ニュージャージーのプリンストン近くで、大陸軍とイギリス軍との間に行われた戦闘である。トレントンの戦いでの勝利に続いて、わずか10日の間の2度の勝利は、意気消沈していた大陸軍の息を吹き返させた。
目次 |
[編集] 背景
1776年11月16日にニューヨークの最後の砦が陥落し、ジョージ・ワシントンの率いる大陸軍は、ニュージャージーからデラウェア川を越えてペンシルバニアまで撤退していた。大陸軍と大陸会議の間で悲観的な空気が蔓延する中で、ワシントンは起死回生の策を立てた。12月25日、ワシントンは夜陰と嵐に紛れてデラウェア川を渡り、ニュージャージーのトレントンに駐屯していたイギリス軍のドイツ人傭兵部隊を急襲し、その大半を捕虜にした。大陸軍の間にまだやれるという気持ちが生まれたことで、この勝利の意味は大きかった。ワシントンはイギリス軍の反攻を恐れて、一旦デラウェア川を再度渡り、ペンシルバニアに撤退した。 イギリス軍のニュージャージー方面軍を指揮していたチャールズ・コーンウォリス中将は、ニュージャージーのプリンストンにチャールズ・モーフード中佐の指揮で1,400名のイギリス軍兵士を残しておいた。大陸軍のワシントン将軍およびその戦争委員会は、イギリス軍の強い反撃があるものと予想していたので、トレントンでこれに対応することを決めた。
[編集] 第二次トレントンの戦い
12月30日、ワシントンの部隊は再びデラウェア川を渡り、ニュージャージーに入った。次の数日後、トレントンの中心部を流れるアッサンピンク・クリークという小川を渡り、南の高地に移動した。1777年1月2日、コーンウォリスの率いる大部隊がワシントンの部隊に遭遇した。コーンウォリスはプリンストンからトレントンに侵攻してきたが、途中で大陸軍の小集団が妨害し、歩みを鈍くされていた。しかし、トレントンに着いた時は大部隊となっていた。両軍はクリークと橋を間に置いて、200ヤード (200 m) の距離で睨み合った。コーンウォリスが攻勢に出ることを命じた。大陸軍からも大砲とライフルで応戦し、激しい交戦後にイギリス軍が大きな損害を被った。橋は架かったままであり、夕闇が訪れたので、コーンウォリスは撤退を命じた。 この日の戦闘で大陸軍は約40名が戦死した。イギリス軍の損害は、約400名が死傷、あるいは捕虜となった。
その夜、ワシントン軍は篝火を焚いておいて、夜半に密かに陣地を離れた。コーンウォリスはワシントン軍の動きを探らせるための斥候を放ったが、その配置に適切さを欠いていた。ワシントン軍はイギリス軍の背後に回り込みプリンストン攻撃に向かった。トレントンの陣地には一握りの部隊を残し、クリークを守っているかのように見せかけるために陣地の防御工事を行わせ、軍が移動する音も消させた。イギリス軍は大陸軍陣地の動きは捉えていたが、コーンウォリスは大陸軍が夜襲を掛けようとしていると思いこみ、自軍に防御配置につくよう命令したので、大陸軍はやすやすと行軍に成功した。
大陸軍は夜通し裏道を通ってプリンストンに向かい、町の南6マイル (約10 km)にあるストーニー・ブルックに架かるクェーカー橋に到着した。クェーカー橋は大砲や輜重車を通すには強度が足りなかったので、急遽、橋をもう一つ架ける必要性が出てきた。橋を架けている間に、ワシントンは部隊を編成し2つの部隊に分けた。1つはナサニエル・グリーン将軍に任せて左翼とした。もう1つの部隊はやや大きくジョン・サリバン将軍に任せて右翼とした。ワシントンは夜明け前のプリンストン攻撃を目論んでいたが、日が昇り始めた。
グリーンの任務はプリンストンとトレントンをつなぐ道路を封鎖し、ストーニー・ブルックに架かる橋を破壊することであった。サリバンの部隊は攻撃の主力であり、ニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)の背後に進軍した。イギリス軍は町の北と東西の道路上には歩哨を立てていたが、サリバンの進んだ南側からの進入路には歩哨がいなかった。
[編集] プリンストンの戦い
グリーンの部隊が道路に到着する前に、バージニアのヒュー・マーサー将軍が指揮する先遣隊約1,200名の旅団が、約800名のイギリス軍に遭遇した。イギリス軍は第17連隊のモーフード中佐が指揮する第4旅団であり、その構成は第17および第55歩兵連隊、第16軽竜騎兵連隊と2門の小振りの大砲であった。この部隊はレスリー将軍の第2旅団を支援するためトレントンに向かう途次にあった。プリンストンの防衛のために第4旅団の第40歩兵連隊約400名が残されていた。
大陸軍を目撃するとモーフードはマーサー隊が通り過ぎようとしていた果樹園の縁に沿って陣形を整えさせた。激しい銃火が交わされ、モーフード隊の突撃で果樹園からマーサー隊を追い出した。マーサーは混乱に乗じて脱出を試みたが、負傷してしまった。マーサーは降伏を拒み、襲いかかる敵に刀で斬りつけたが、敵の銃剣に倒れた。デラウェアのジョン・ハスレット大佐がマーサー将軍の指揮を引き継いだが、頭を撃たれて戦死した。
この混乱の間、ワシントンは馬を駆ってマーサーの残兵を集めに掛かった。このときジョン・キャドワラダー将軍が、2,100名の兵と1個砲兵中隊を引き連れて到着した。この援軍に力を得てマーサーの残兵も集結し、数的に優勢となった大陸軍は果樹園の大半を占領しようとしたが、モーフード隊の砲撃で大陸軍の動きは止まった。
イギリス軍が2回目の突撃を行って果樹園を占領し、その日の戦いの行方が決まったかに見えたが、このときサリバン隊約1,300名が到着した。勢力比が6対1と劣勢になり、モーフード隊は最後の突撃で大陸軍の戦線を破ろうとした。第17歩兵連隊および第55歩兵連隊の一部、第16軽竜騎兵連隊が総崩れとなり、トレントンに向かう道を逃げ出した。これをワシントンが追撃したが、レスリーの部隊がやってくるのが視認できたため中止した。第55歩兵連隊の残りはプリンストンに戻り、防衛に残っていた第40歩兵連隊と合流して、しばらくサリバン隊の攻撃を凌いだが、ニューブランズウィックに向けて撤退した。いくらかの部隊がプリンストンに取り残され、アレクサンダー・ハミルトン大尉に降伏した。
トレントンでは、コーンウォリスや兵士達が、背後から聞こえてくる砲声に驚かされた。コーンウォリス隊はプリンストンに急行した。しかし、ワシントンの後衛部隊がストーニー・ブルックに架かる橋を壊していたことと、大陸軍の狙撃兵が行く手を阻んだので、その侵攻速度が鈍った。疲弊した大陸軍はサマーセット郡庁舎(現在のミルストーン)に逃れその夜を過ごした。イギリス軍の主力部隊はその日遅くにプリンストンに入ったが、そこには止まらず急遽ニューブランズウィックに向かった。
[編集] 戦いの後
この戦いの後、コーンウォリスはニュージャージーの拠点の多くを放棄し、ニューブランズウィックに撤退するよう命じた。この戦いによるイギリス軍の損害は、死傷者、捕虜合わせて276名に上った。大陸軍は30名が戦死し、75名が負傷した。大陸軍の士気が高まり、新たに8,000名の志願兵が集まった。
イギリス軍はその地域から駆逐されたが、彼らが教科書通りの突破攻撃で強さを発揮し、全滅を免れたことは特筆に値する。
アメリカの歴史家は、プリンストンの勝利はトレントンの勝利に匹敵するものであると見なす。その後のイギリス軍によるニュージャージー支配権の喪失、およびフランスやスペインによる大西洋を越えた戦争参入という政治的に重要な意味合いとが、この戦闘後の大陸軍に大きな軍事的可能性を広げた。
古戦場はプリンストンの南にあり、プリンストン古戦場州立公園となっている。傷ついたマーサー将軍が戦場のオークの木の下で休んだという記述もある。プリンストンを含むマーサー郡が彼の名前を取り、オークの木を紋章とした。その老木は2000年に枯死し、その実から育てた苗が植えられた。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Fisher, David Hackett. en:Washington's Crossing. Oxford University Press USA, 2004, 576 pages. ISBN 0195170342
- Ketchum, Richard. The Winter Soldiers: The Battles for Trenton and Princeton. Owl Books, 1999, 448 pages. ISBN 0805060987