ブランデンブルク門
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ブランデンブルク門 (Brandenburger Tor) はドイツ・ベルリンのシンボルとされている門で正面部はパリ広場 (Pariser Platz) の東に面している。高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11mの、砂岩でできた古典主義様式の門である。
1868年に城壁が取り壊されるまでベルリンは都城都市だった。ブランデンブルク門は18箇所あった都城の門のひとつであり、残りの門が城壁の取り壊しとともに姿を消していく中、唯一残されたのがブランデンブルク門である。現在、城壁や都城の門は跡形もなくなったが、ベルリンには『~Tor(門)』という地名はそこかしこに残されている。どの地名もその門の先の都市の名前が門の名前になっており、ブランデンブルク門の場合はベルリンに遷都するまで、プロイセン王国の首都だったブランデンブルクに通ずる道を扼する役割を担っていた。
ブランデンブルク門から東に向かうとウンター・デン・リンデンを経て王宮へとつながっており、プロイセン王族が、ベルリン市外に出てポツダムやティーアガルテンに向かう時には必ずこの門を通過する、ベルリンの正門と言っても過言ではない位置付けだった。ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。これといった竣工式も行なわれないまま門は開通、供用に付されたという。門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライアの門を模した物で、当時ドーリア式円柱だけが残っていたプロピュライアの創建時の姿を想像してそのままベルリンに再現した(実際は三角形の破風がプロピュライアの上にはあったと思われるが、ラングハンスは水平の屋階を載せている)。さらに門の上には、彫刻家ゴットフリート・シャードウが制作した四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像を乗せた。
もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻された。門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場はパリ広場に改名され、ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念して鉄十字紋章が取り付けられた。門の前は列強の大使館やホテル・アドロンなどの壮麗な建築群が並ぶベルリンの中心地のひとつとなった。
第二次世界大戦後は東ベルリンに属し、西ベルリンとの境界線がすぐ近くを通ることとなり、門の前にあった廃墟はすべて撤去されて何一つ建物のない無人地帯となった。ヴィクトリアの持つ杖の先は、社会主義国らしくなるよう平和の象徴であるオリーブの枝に変えられた。それでも門を通っての東西ベルリンの往来は活発だったものの、1960年に東ドイツが国民流出を防ぐためベルリンの境界線を封鎖し、後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、再び門の下を通行できるようになった。ヴィクトリアの持つ杖の先は再び鉄十字に戻り、門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われた。周囲では1990年代から2000年代にかけてホテルや大使館などの再建が進み、門はベルリンを代表する観光地となっている。
[編集] ギャラリー
門の内側の神マルス像 |
門の内側の女神ミネルウァ像 |
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1871年、普仏戦争後のパレード |
[編集] 外部リンク