ピラミッド
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ピラミッド (Pyramid) は、エジプト・中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称。また、同様の形状の物体を指す。その形からかつては金字塔(きんじとう)という訳語が使われていた。現代においても「金字塔」は、ピラミッドのように雄大かつ揺るぎもしない業績などを表す代名詞となっている。
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[編集] 古代エジプト
古代エジプトにおけるピラミッドは、巨石を四角錐状に積み上げ、中に通路や部屋を配置した建造物である。王が天に昇る階段としての役割や、その斜めの外形が太陽光を模したものであるとも考えられている。ピラミッドは単体で完成したものではなく、付随する葬祭殿等との複合体として考えるべき特徴を持つ。(大ピラミッドなどの代表的な例では)ピラミッド本体には基本的に北面に入り口があり、玄室(と思われる部屋)に至る道や「重力分散の間」と呼ばれる謎の機構など、未解明の仕掛けがある。労働者の墓の発掘で、多くの死者が出たことがわかっている。
ヘロドトスの『歴史』に記述されて以来、一般的には奴隷の築いた王墓とされてきたが(“奴隷”の記述は階級闘争を進めるソ連の教科書に初めて記述された)、1人の王が複数のピラミッドを築いていることや、内部から墓としてのミイラがまだみつからず、多くのピラミッド建造に関わったとされる住居跡から豊かな生活物資や住居人のミイラ(身分が高くないとミイラにはされない)が発見されたことなどから、農閑期における農民達の公共事業説がほぼ定説となっている(もっとも労働力として動員された中には奴隷も存在した可能性はある)。語源はギリシア語で三角形のパンを指すピューラミス(πυραμ?? pyramis ピラミス、ピラムスとも)に由来する、という説が最も有力。古代エジプト語ではギザのピラミッドに「昇る」という意味の「メル(ミル、ムルとも。ヒエログリフでは△と書く)」という言葉を当てていた。
[編集] 形態の形成
現在我々が見るようなピラミッドの形態はある時点で突発的に形成された訳ではなく、何世代もかけて練り上げられてきたものである(ただし、それぞれのピラミッドはその形状で完成形態であるとする研究も出てきている)。
[編集] 階段ピラミッド
階段ピラミッドはピラミッドの最初の形態で、第3王朝時代サッカラに、宰相イムホテプが設計し、ジェセル王が築いた物がその始まりである。当初は日干し煉瓦による方形のマスタバとして建立されたが、後に煉瓦を積み上げて階段状の巨石建造物と成した。一度階段形態が完成した後も、追加して拡張が成された。完成時の寸法は東西約121m、 南北約109m、 高さ約60m。
[編集] 屈折ピラミッド
第4王朝期に入ると、スネフェル王が既存のピラミッドを基調に51度の勾配を持つピラミッドを造り上げた。このメイドゥームのピラミッドは最初に四角錐の形状を採用しており、その意味では画期的な建造物であった。ただしこれは後に(あるいは建設途中に)崩壊した。このピラミッド(崩壊ピラミッド、偽ピラミッドとも呼ばれる)はそもそも四角錐を目指していなかったとする説もある。また、このピラミッドをスネフェルの物として数えない場合もある。
スネフェル王はまた屈折ピラミッドと称される事になるピラミッドも築いた。これは建設途中に(地上から49m地点で)勾配を約54度から約43度に変更していて、高さは約101mであった。 屈折ピラミッドの形状の理由としては、
- 勾配が急過ぎて危険なため(崩壊の危険、玄室にかかる重量過多)角度を途中で変更した。
- 建造中に王が病気になったので、完成を急ぐため高さの目標を下げた。
- これはこれが完成形であり、下エジプト・上エジプトの合一を象徴している。
などの説がある。
[編集] 真正ピラミッド
スネフェルは更にダハシュールにおいて、勾配約43度で、側面が二等辺三角形の赤いピラミッドを建造。これによっていわゆる真正(しんせい)ピラミッドの外形が完成した。スネフェルが1人で3つもピラミッドを築いている点から導かれる王墓説否定論に対しては、メイドゥームのピラミッドは勾配がきつ過ぎて崩壊、同様に屈折ピラミッドは一定の高さ以上に出来なかったので挫折した妥協の産物でしかなく、最終的に43度のピラミッドが誕生した、という反論がなされて来た。
世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王によってギザに築かれたギザの大ピラミッドで、勾配は51度52分。底辺は各辺230m、高さ146mに達する。長さ・高さの比は黄金比であり、またこれは14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。第2位のカフラー王のピラミッドもこれに匹敵する、底辺215m、高さ143.5mである。この2つに隣接するメンカウラー王のピラミッドは何故か規模が縮小し、底辺108m、高さ66.5mである。この王の威光が前二代の王と比してさほど劣るものではなかったと伝えられることから、縮小の理由は謎とされている。この3つはギザの三大ピラミッドと呼ばれ、世界有数の観光地となっている。これらのピラミッドは表面に化粧板が施されていたが、剥がされてカイロ市街地の舗装に使われてしまい、現在ではカフラー王のピラミッドの頂上辺りとギザのピラミッドの土台元に僅かに残っているのみである。
この三大ピラミッドおよびナイル川の(当時の)流れ、そして他の多数のピラミッドとの配置に着目し、ピラミッド群は天体の配置を模したものであるという説もある。すなわちナイルが天の川で、三大ピラミッドがオリオン座の三つ星に相当、他のピラミッドも星の位置を反映しているということである。三大ピラミッドの内、メンカウラー王のピラミッドが他の2つの頂点を結んだ線からずれている点、大きさも他の2つよりも小さいことに付いて説明する有力な説とも言われている。ただしこの説は一般的に考古学者たちには認められてはいない。
[編集] ピラミッドの衰微
クフ王の大ピラミッドを頂点としてその後造営規模は縮小し、石材の代わりにレンガを代用したり、石積みの精緻さも劣るなどピラミッドの造営は衰微する(例えば、中王国時代のラフーンのピラミッド、ハワーラのピラミッドなどはそれが顕著である)。ただ一方で葬祭殿の充実が進んでいったことから、エジプト人の価値観・宗教観の変化が指摘される。またピラミッドが王墓でないという説では、必要な数の大ピラミッドを作ってしまったからともいう。
[編集] ピラミッドの建造
旧来、ピラミッドの建設は多数の奴隷を用いた強制労働によるという説が主流であったが、当時の技術力・国力からして奴隷労働なしでも20年程度で完成可能と考えられる点、奴隷を徴用した証拠がないという点から、一部の研究者には疑問を抱かれていた。近年のピラミッド労働者の村の発掘で、労働者たちが妻や子供といった家族と共に暮らしていた証拠や、怪我に対して外科治療が行われていた痕跡が墓地の死体から見つかり、現在では奴隷労働説は否定されたと言って良い。そもそも古代エジプト社会は古代ローマや古代アテナイの社会と異なり、農業や手工業といった通常の生産労働も奴隷労働に依存せず自由身分の農民によって成されており、人口の少数しか占めない奴隷は家内奴隷が主体だったと判明している。吉村作治教授は、ピラミッド建造は定期的に発生したナイル川の氾濫によって農業が出来ない国民に対して、雇用確保のために奨められた国家事業であったと発表している。
ピラミッド建設に必要な石材は建造地の近傍では産出しないため、石切場で切り出された後、粗加工した状態で搬送されたと考えられる。それらの石は一定の規格寸法があった訳ではなく、現場で必要な寸法に合わせて専門の職人が鑿で整形していた。石材を積み上げるに当たっては、日乾し煉瓦と土などで作業用の傾斜路が作られ、その斜面を運び上げられた。この傾斜路はピラミッドを取り巻くように築かれ、4辺で直角に転回しながら石を運び上げていったものと考えられていた。この方法だと施工面積を最小限に抑えられるからである。しかし最近は転回しなくて良い、長大な一本道が使われていたという説が多くを占めるようになってきた。この方法だと各ピラミッドの傾斜路がナイル川から石材を降ろして運び上げるのに丁度良い位置に来る、という研究もある。
クフ王の大ピラミッドについて、1978年に大林組が「現代の技術を用いるなら、どのように建設するか」を研究する企画を実行した。それによれば総工費1250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3500人という数字が弾き出された。1立方m当たりの価格は、コンクリートダムが2万4000円前後に対してピラミッドは4万8000円になるという(金額は当時のもの)。
[編集] 中南米
メソアメリカ文明のピラミッド様建築は、陵墓・天文台として造られた物もあったが、基本的には神殿として建設・使用された。
基本的には上部に神殿を持つため、四角錐ではなく上面が平らになっていて、神殿の土台としての性格が強い。単数ないし複数の辺から神殿に到る階段が存在するのが基本である。マヤ文明のものを例に挙げると、パレンケの「碑銘の神殿」、チチェン=イッツアの「カスティーヨ」、ティカル1号神殿などは9段の基壇を持ち、9層の冥界を表すと言われているが、全ての神殿の基壇数がそのような意味を持っているわけではない。新しいピラミッド神殿は、古いそれの上に礫・土を積み上げて石材で表面を覆い隠す形で建造されるのが常であり、発掘すると多層構造が明らかになる場合がある。また、エジプトのピラミッドと異なり、内部の空洞はあまりない。
建築様式は古典期以降、テオティワカン独特の水平垂直壁のタブレロとそれをのせた斜面壁のタルーが組み合わされたタルー・タブレロ様式の基壇を採用した神殿ピラミッドが各地に築かれた。
メソアメリカで天文台として使われていた神殿で有名なのは、ティカルの Mundo Perdido(「失われた世界」)グループとワシャクトゥンのグループEである。グループEについては、各種概説書でピラミッドE-VIIからピラミッドE-Iは、夏至の日の出の方向であり、ピラミッドE-IIは、春分・秋分の日の出の方向、E-IIIは、冬至の日の出の方向に当たると紹介されている。
アンデス文明のピラミッドで良く知られているのは、モチェ文化のモチェ谷にある「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる日干煉瓦で築かれた建物である。「太陽のワカ」は、かつては、長さ342m、幅159m、高さ40mあったと推定されているが、17世紀に盗掘者達が川の流路を変更して削り取ったために半分以上が失われている。一方「月のワカ」は長さ95m、幅85m、高さ20m程の規模である。最近発掘調査が行われ、壁画に盾や棍棒の擬人化した図像に加え、ジャガーらしいものも見られる。このような要素は「太陽のワカ」には見られず、宗教的・儀礼的な空間として機能していたと考えられる。またモチェV期(A.D.550~700頃)には、パンパ・グランデ遺跡でワカ=フォルタレサというピラミッドが築かれ、高さ55mに達している。
また、ボリビアのチチカカ湖畔にあるティワナク遺跡中心部に、アカパナと呼ばれるピラミッドがあり、中心部からやや離れた場所にプマ・プンクと呼ばれる低い基壇状のピラミッド状建築物がある。
[編集] ヨーロッパ
ボスニアのビスコで発見されたヨーロッパ初のピラミッドで現在調査中。
[編集] 俗信・数奇伝説など
巨大にして精緻な建造物であるピラミッドには、様々な風聞が付きまとった。
[編集] ピラミッド測定数値予言説
ギザのピラミッドの各種測定数値が予言になっているという。
[編集] ピラミッドパワー
ピラミッドパワーを参照のこと。
[編集] 「日本にもピラミッドがある」説
日本の、自然の山と思われているものの中には、人工的に作られたピラミッド様建築物が存在しているという説がある。自然の山や丘陵の一部に手を加えて祭祀の場としたという意味でならば夢物語とも言えない。が、そもそも数100mの山を日本の古代人が築けたとする説には無理が多すぎる。そのような文明が他の明確な痕跡を残さずに消えてしまったと考えるのは不自然だからである。
[編集] 超文明説
現代の土木機械を大量に投入してもなお多大な労力を要するものを、20~30年で古代人が出来た筈がない。ましてや現代の試算というのも、200万個の石を1分に1個ずつ積まねばならないのだから計算自体がおかしい。ゆえに、ピラミッドは古代宇宙飛行士説による宇宙人や超古代文明によって作られた、とする説が民間で流布されている。
前者については古代エジプトで費やされたとされる人数が20万人という桁違いのものであり、徹底した分業体制が敷かれていたこと(これは発掘調査から明らかである)を過小評価している。後者の指摘については、それが単なる割り算で満足してしまっており、ピラミッドの下層ほど同時に多数の石積み作業が行えるという単純な事実が見えていない。
また大西洋を挟んでピラミッドが建設されたことにより両文明の交流の可能性が主張されるが、言語など他の要素の共通が見られないことにより否定視されている。アーチ構造が発明される以前は巨大な建物はピラミッド状にするしか建設の仕様がなかったため同じような形状になっただけと考えられる。
[編集] 関連記事
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