ビセンテ・デル・ボスケ
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ビセンテ・デル・ボスケ | ||
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名前 | ||
本名 | ビセンテ・デル・ボスケ・ゴンサレス | |
カタカナ | ビセンテ・デル・ボスケ | |
ラテン文字 | Vicente DEL BOSQUE | |
基本情報 | ||
国籍 | スペイン | |
生年月日 | 1950年12月23日(57歳) | |
出身地 | サラマンカ
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選手情報 | ||
ポジション | MF、DF | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1969-1971 1971-1972 1972-1973 1973-1984 |
カスティージャCF コルドバ カステリョン レアル・マドリード |
0 (0) 19 (1) 30 (5) 312 (14) |
代表歴 | ||
1975-1980 | スペイン | 18 (1) |
監督歴 | ||
1994 1996 1999-2003 2004-2005 2008- |
レアル・マドリード レアル・マドリード レアル・マドリード ベシクタシュ スペイン代表 |
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ビセンテ・デル・ボスケ・ゴンサレス(Vicente Del Bosque González, 1950年12月23日 - )は、スペインのサラマンカ出身の元サッカー選手で、現役時代はMFまたはDFとしてレアル・マドリードやスペイン代表などでプレーした。1999年から2003年までレアル・マドリードの監督を務めたことで有名である。
目次 |
[編集] 選手経歴
1968年にレアル・マドリードに入団し、カスティージャCF(レアル・マドリードのBチーム)でプレー。1970-1971シーズンにトップチームに上がったものの、暫くはCDカステリョン、コルドバCFでレンタル暮らしをしていた。1973-1974シーズンにレアル・マドリードに復帰してからは、リーガ・エスパニョーラ優勝5回とコパ・デル・レイでは4回優勝し、441試合に出場、37得点を記録した。また、スペイン代表のキャップは18を数え、1980年の欧州選手権に出場した。デル・ボスケはキンタ・デル・ブイトレの前の時代のレアル・マドリードで活躍し、1984年6月に選手生活を終えた。
[編集] 監督経歴
現役引退後はレアル・マドリード・カスティージャで指揮を執るなどレアル・マドリードのカンテラで監督を歴任、カンテラの責任者としてイケル・カシージャスなど現在もトップチームでプレーする選手たちを指導していた。また、トップチームの監督が解任または辞任した際には一時的な措置として監督代行を務め、1994年に数ヶ月間、1996年には一試合指揮を執っている。
1999年11月、トップチームの新監督だったジョン・トシャックを解任した後、クラブのフロントはデル・ボスケを後任に据えた。「監督代行」ではなく「正式な監督」となったデル・ボスケは、リーガ・エスパニョーラでは苦しんだものの、UEFAチャンピオンズリーグ決勝ではバレンシアCFに快勝し、チームを2シーズン振りの優勝に導いた。
翌2000-2001シーズン、フロレンティーノ・ペレスが新会長に就任し「銀河系」時代の幕開けとなったが、デル・ボスケは監督に留任。新加入選手の多さからかUEFAスーパーカップ敗戦、コパ・デル・レイ早期敗退など出だしは躓いたものの、リーガ・エスパニョーラでは圧倒的な攻撃力を見せ付け、4年振りに王座を奪還した。ちなみにこのシーズン中の3月にクラブはデル・ボスケとの契約を2003年6月まで延長した。
2001-2002シーズンはスーペルコパで早々にタイトルを獲得すると、チャンピオンズリーグでは流れるような美しいサッカーを披露して勝ち進み、準決勝でFCバルセロナを破り決勝に進出、決勝でレバークーゼンに勝利し優勝。レアル・マドリードのクラブ創立100周年を華々しく飾った。2002-2003シーズンにはUEFAスーパーカップに勝ったのを皮切りに、インターコンチネンタルカップでも優勝。時にチームの結束を脅かしかねない強烈な個の力を束ね、リーガ・エスパニョーラでは追走するレアル・ソシエダを振り切り優勝を飾った。
しかしリーガ優勝を達成した翌日、クラブ首脳部は突如デル・ボスケとの契約を更新しないことを発表した。これはデル・ボスケがフェルナンド・イエロを始めとする選手たちと共にクロード・マケレレの年俸アップを要求していたこと、新しい「銀河系」デビッド・ベッカムについて不要だと意見したことが原因と見られている。ちなみに当事スポーツディレクターを務めていたホルヘ・バルダーノは「成功を収めている時でも時に変化することは必要である」と発言し、当事の会長ペレスは「デル・ボスケは疲労を見せていた。正直に述べるが、我々は、彼は将来的に適切な監督ではないと考えている」「デル・ボスケの経歴は伝統的なもの。我々はより戦術を重要視した人物を探している。我々が築いているチームは違うキャラクターを持った監督によって、より強力になるだろう」と述べている[1]。
デル・ボスケが監督を務めていた4シーズンの間、レアル・マドリードは毎シーズンビッグタイトルを獲得し、リーガ優勝2回、チャンピオンズリーグ優勝2回(4シーズン連続ベスト4以上)、インターコンチネンタルカップ優勝1回など、クラブ史に残る黄金時代を謳歌した。ペレスが提唱した「ジダネス、パボネス政策(スター選手とカンテラ出身の選手の融合)」の成功はデル・ボスケの手腕によるところが大きく、国内外のスター選手とカンテラ出身の若手選手が混在したロッカールームを巧みにまとめ上げ、一つのチームとして機能させていた。また何があっても動じず冷静沈着であり、選手たちの人望も厚かった。デル・ボスケ以後のレアル・マドリードは3年間で7人の監督が指揮を執ることとなり、次のタイトルは2007年にファビオ・カペッロによってもたらされたリーガ・エスパニョーラ優勝まで待たねばならなかった。そして皮肉にもペレスは辞任。
2004年、欧州選手権でグループリーグ敗退に終わったスペイン代表の次期監督候補に挙げられていたがデル・ボスケ本人は興味を示さず、トルコリーグのベシクタシュの監督に就任するが、シーズン途中に解任された。また2006年にはメキシコ代表がドイツ・ワールドカップで敗退した直後に後任の座をオファーされ、本人も光栄なこととしながらもこれを断っている。
デル・ボスケは2006年夏に行われたレアル・マドリードの会長選挙で、候補のファン・パラシオスの選挙公約で監督に指名されていたが、僅差でラモン・カルデロンに敗れたためレアル・マドリード復帰はならなかった。しかし未だファンの間で人気は根強く、チームが危機に陥る度に監督復帰待望論が出ている。2007年にはカルデロンが次期監督に推しているとされるベルント・シュスターについて、「素晴らしい監督であり、レアル・マドリードを指揮するのに申し分ない」と発言した[2]。また現在は解説者を務めている。
2008年3月11日に、EURO2008終了後にスペイン代表監督就任内定したことが明らかになった。
[編集] 所属クラブ
- 441試合 / 37得点(レアル・マドリード在籍時のみの記録)
[編集] 代表
18試合
- 1980年 欧州選手権・イタリア大会 グループリーグ敗退
[編集] 指導歴
- 1994 レアル・マドリード ※監督代行(11試合)
- 1996 レアル・マドリード ※監督代行(1試合のみ)
- 1999 - 2003 レアル・マドリード
- 186試合 104勝40敗42分 勝率55.91%[3]
- 2004 - 2005 ベシクタシュJK ※途中解任
[編集] タイトル
[編集] 選手時代
- 1973-1974 コパ・デル・レイ 優勝
- 1974-1975 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 1974-1975 コパ・デル・レイ 優勝
- 1975-1976 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 1977-1978 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 1978-1979 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 1979-1980 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 1979-1980 コパ・デル・レイ 優勝
- 1981-1982 コパ・デル・レイ 優勝
[編集] 監督時代
- 1999-2000 UEFAチャンピオンズリーグ 優勝
- 2000-2001 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 2001-2002 UEFAチャンピオンズリーグ 優勝
- 2001-2002 スーペルコパ・デ・エスパーニャ 優勝
- 2002-2003 リーガ・エスパニョーラ 優勝
- 2002-2003 インターコンチネンタルカップ 優勝
- 2002-2003 UEFAスーパーカップ 優勝
[編集] 参照
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