バスク国 (歴史的な領域)
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歴史的な領域としてのバスク国(バスク語:Euskal Herria)は、文化的、歴史的な地域。ピレネー山脈西部に位置し、フランスとスペインにまたがり、ビスケー湾に面する。バスク人とバスク語の歴史的な故国とおおむね一致する。
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[編集] 地理
バスクの伝統では、バスク国は7つの地域(Zazpiak Bat)からなる。南の4つの地域(Laurak Bat)はスペイン内にあり、Hegoalde(南部)を構成し、北の3つの地域はフランス内にあり、Iparralde(北部)を構成する。7つの地域は次のとおり。
[編集] 南バスク国
南バスク国のうち3つの地域はスペインの県になっており、バスク自治州(Euskadi)に含まれる。
- アラバ - 都はガステイス(スペイン語:ビトリア)で、バスク自治州の州都を兼ねる。
- ビスカイア(スペイン語:ビスカヤ) - 都はビルボ(スペイン語:ビルバオ)
- ギプスコア - 都はドノスティア(スペイン語:サン・セバスティアン)
南バスク国の東部の地域は別の自治州になっており、3つの県を合わせたより大きい。
[編集] 北バスク国
北バスク国はフランスのピレネー=アトランティック県の一部である。
- 低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:バス・ナヴァール) - 都はドニバネ・ガラシ(フランス語:サン・ジャン・ピエ・ド・ポル)
- ラプルディ(フランス語:ラブール) - 都はバイオナ(フランス語:バイヨンヌ)
- スベロア(フランス語:スール) - 都はマウレ(フランス語:モレオン)
[編集] 歴史
バスク国の領域には、後期旧石器時代から人間が住み続けてきた。ローマ帝国期にはいくつかの部族に分割されたが、民族的な大きな領域を構成していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。
ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。
3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域はバガウダエにからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、ガスコーニュ公国の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいはアキテーヌ公国との連合国であった。
ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌのウード公、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。
南方ではパンプローナ王国(のちのナバラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネーの両側においてバスク国の唯一の政治的な実体となった(スベロアは自治を保ったが、バイオナとラプルディ沿岸部はイングランドの手に落ちた)。王国はサンチョ3世(985年-1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク国のほとんど、ラ・リオハ、カスティーリャの北東に加えて、カスティーリャ王国とアラゴン王国(どちらも当時は地方の小国であった)に及んだ。サンチョは「大王」と呼ばれ、レオンやバスコニア(ガスコーニュの語源)の脆弱な地域も保護国にしようとした。
サンチョが死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベとリバゴルサである。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。「ナバラ」という名前が付けられたのは、パンプローナとアラゴンが連合した間である。
1134年、ガルシア・ラミレスがナバラ王位に就くと、カスティーリャとの戦争が始まった。ラ・リオハを明け渡すことで和平が結ばれたが、西部の3県はナバラ王国の手にとどまった。しかしカスティーリャは新たな侵攻を始め、3県はカスティーリャに帰属した。ただし、トレビニョを除いて3県には自治権(フエロ)が認められた。
1512年、フェルナンド2世の部隊が南バスクを占領した。ピレネー北のバス・ナヴァールは独立を保ったが、1620年にフランスに編入された。バス・ナヴァールは1589年にアンリ4世がフランス王について以来、フランスと連合していた。
ナバラと北バスクの県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命による中央集権化が進むと、フランス側の県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。
ナポレオンによるスペイン侵攻の間、バスクの県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。
19世紀に、この地域に自由主義的な試みが行われ、一個の国民国家としての中央集権化と均一化が行われた。 この結果、バスクはカルリスタ戦争で反動的なカルリスタ党に接近したが、バスク政府がもはやこの戦争には望みがないことを察して戦争が終わった。 この間に、バスク地方は自治権を失ったが、徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った。
この影響で、関税境界がバスク国とスペイン側の国境から、バスク国の中央を走っているフランス国境へ移動した。 このために、伝統的なパンプローナ-バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある密輸商売は消滅した。 逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。
カルリスタ戦争の結果、および19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の思想に率いられて、バスク人はバスクをより近代的な組織に変える闘争を再構築しなければならないと感じた。 そうした人たちの中で、サビノ・アラナとその弟ルイスが、19世紀後半に近代的なバスク民族主義を打ち立てた。
このイデオロギーは、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。 最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、ガリーシア人移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。 造船業、冶金業、小型兵器製造業といったもの全てが、ビルボや多くのギプスコアの都市を、栄える経済的中心に押し上げた。 影響力のあるバスクのブルジョア階層はこうして生まれたのだった。
アラナが興し、基本的にバスク民族主義者党 (EAJ-PNV) が支持しているバスク民族主義は、民主主義的手段をもって、かつて自治を認めた自己統治とほぼ同じか、それを越える自己統治を目指した。 バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。 しかし、1937年のファシストへの抵抗の最後の月になるまで、それは達成されなかった。
フランコ政権下では強烈な抑圧を受けたが、数十年の間にそれは緩和された。 ベネズエラとパリにバスク亡命政府が置かれたこともあったが、その活動は実態のない代表権と、困難な隠密活動に限られていた。 その後、民族主義青年団 (EGI) の中に、即時行動を求める新グループを設立し分裂した。 この新グループはエウスカディ・タ・アスカタスナ(バスク国家と自由)と名乗り、現在ではETAとして知られている。 後の非常に活発で過激な都市ゲリラ組織である。
40年間のフランコの伝統的カトリック政権の後、スペインで勃興した自由民主主義が、バスク国にも自治をもたらすことになる。 しかし、ナバーラは親スペイン派の政党が政権を握ってきていたので、バスクとは別の法制と、独自の言語による法律を望んだ。 西部の州だけで構成されたバスク自治共同体は、民族主義系の政府が政権を握ってきた。 ETAは38年間のテロリズムと800人以上のスペイン人死者を出した末、2006年3月に恒久的な休戦を宣言したものの、9ヵ月後の12月30日にバラハス空港の爆破事件を起こす。その半年後の2007年6月、停戦破棄声明を出す。その後も爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていない。
[編集] 関連項目
- バスク国(スペインの自治州)
- 北バスク国(en:Northern Basque Country)
- バスク人
- バスク料理
- バスク神話(en:Basque Mythology)
- 独立主張のある地域一覧
- スペインの国民性(en:Nationalities in Spain)
- ゲルニカ