ニューイングランド・ペイトリオッツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カンファレンス | AFC |
地区 | AFC東地区 |
創設 | 1960年 |
スタジアム | ニッカーソン・フィールド(1960年 - 1962年) フェンウェイ・パーク(1963年 - 1968年) アルミニ・スタジアム(1969年) ハーバード・スタジアム(1970年) フォックスボロー・スタジアム(1971年 - 2001年) ジレット・スタジアム (2002年- ) |
本拠地 | フォックスボロー(マサチューセッツ州) |
チームカラー | 赤, 白, 青とシルバー |
チームロゴ | en:Image:NewEnglandPatriots.png |
ヘッドコーチ | ビル・ベリチック(2000年 - ) |
リーグ・チャンピオンシップ (3) 2001、2003、2004 |
|
カンファレンス・チャンピオンシップ (7) 1985、1996、2001、2003、2004、2007 |
|
ディビジョナル・チャンピオンシップ (10) AFL東地区 : 1963 AFC東地区 : 1978、1986、1996、1997、2001、2003、2004、2005、2006 |
|
ワイルドカード (3) 1985、1994、1998 |
ニューイングランド・ペイトリオッツ(The New England Patriots)はマサチューセッツ州フォックスボローに本拠地をおくアメリカンフットボール(NFL)のチームである。アメリカンフットボール・カンファレンス(AFC)東地区所属。
- チームフラッグ: 独立13州当時の国旗(赤白のストライプに13個の☆)
- マスコット: Pat Patriot
- 愛称の由来: 本拠ニューイングランド(北東部6州の総称)がアメリカ独立戦争の舞台だった事から。設立当初は上記のようにボストン・ペイトリオッツという名称だったが、ボストン(マサチューセッツ州)近郊の北東部の州からの要望でニューイングランド・ペイトリオッツに改称した。
目次 |
[編集] チーム創設から1969年まで
1959年11月、ビリー・サリバンによってアメリカン・フットボール・リーグ(AFL)8番目そして最後のフランチャイズとしてチームが設立された。1960年のチーム最初の試合はデンバー・ブロンコスに10-13で敗れた。第2週のニューヨーク・タイタンズ戦で初勝利を挙げた。このシーズンはAFC東部地区最下位の5勝9敗で終わった。
1961年、出だしの5試合で3敗したところでヘッドコーチのルー・セイバンが解雇されてマイク・ホルバックが就任した。シーズンの残りの試合でわずか1敗しかせず9勝4敗1分でシーズンを終えた。1962年も9勝4敗1分の成績を残したがプレーオフ進出はならなかった。
1963年、7勝6敗1分けの成績だったが初のプレーオフ進出を果たしバッファローで行われたビルズ戦に26-8と勝利、AFLチャンピオンシップゲームに初の進出を果たした。しかし、サンディエゴ・チャージャーズに10-51で敗れて優勝はならなかった。AFLに属していた間チームがプレーオフに出場したのはこのシーズンのみであった。なおこの年のオールスターゲームにはチームからジーノ・キャパレッティやニック・ブォニコンティ、ベイブ・パリら11人が選ばれた。
1964年、キャパレッティがWRとして7タッチダウン、プレースキッカーとしてFG、PATで111得点を挙げシーズンMVPに選ばれる活躍を見せた。10勝2敗1分で迎えた最終戦地元フェンウェイパークでのビルズ戦は38021人が入場しソールドアウトとなったがファンの期待もむなしく14-24で敗れプレーオフ進出はならなかった。
1965年、開幕から7連敗し、ハロウィンに行われたサンディエゴ・チャージャーズ戦でようやく初勝利を挙げた。11試合終了時点でも1勝8敗2分という成績だったが最後に3連勝、4勝8敗2分でかろうじてリーグ最下位の成績を免れた。
1966年、1勝2敗1分でスタートしたがフルバックのジム・ナンスがAFLレコードとなる1458ヤードを走る活躍を見せて8勝3敗2分でプレーオフ進出に後一歩のところまで迫った。
1967年、フェンウェイパークがワールドシリーズにボストン・レッドソックスが進出した関係で最初の5試合をロードでプレイすることとなり、1勝3敗1分でスタートする。前年も活躍したナンスが1216ヤードを走りシーズンMVPを獲得した[1][2]が、3勝8敗1分で最下位に終わった。
1968年も4勝10敗で終わりシーズン終了とともにホロバックコーチは解任されクライブ・ラッシュが新しいコーチに決定された。またこのシーズンで6シーズンを戦ったフェンウェイパークに別れを告げた。
1969年、本拠地をボストンカレッジのアルミニ・スタジアムに移した。チーム状況は好転せず開幕から7連敗し4勝10敗に終わった。
[編集] 1970年から1991年まで
1970年にAFLがNFLに吸収合併された際にNFLのAFC(アメリカンフットボールカンファレンス)東地区に属すこととなった。ミネソタ・バイキングスのQBでNFLのMVPを獲得したQBのジョー・キャップを獲得したがシーズン成績はAFCから参加したチームワーストの2勝14敗に終わった。
1971年にチーム名を「Bay State Patriots」と変えた後、同じ年にニューイングランド・ペイトリオッツと改称した。チームは創設以来11年間で4つのスタジアムを転々としていたが、1971年から本拠地をフォックスボロースタジアム(710万ドルをかけてわずか325日で完成した。)[3]に移した。
1970年シーズンをNFL最低の成績で終えたため、1971年のドラフトでは全体1位でハイズマントロフィーを獲得したスタンフォード大学出身のジム・プランケット[4][5]を指名した[6]。またスタンフォード大学時代にプランケットが好んだワイドレシーバーのランディ・バタハをフリーエージェントで獲得した。開幕戦で強豪のオークランド・レイダーズを破った後、5連敗したがこの年にスーパーボウルを制したドルフィンズに勝つなど最終的に6勝8敗で終えた。
1972年、プランケットが2年目のジンクスに見舞われた。2勝1敗でスタートした後、チームは9連敗してしまう。9連敗中にヘッドコーチのジョン・メーザーとGMのアプトン・ベルが解雇され、フィル・ベングストロンがヘッドコーチとなり4試合の指揮を執ったが1勝しか加えることができず3勝11敗で終わった。
1973年のドラフトでその後チーム初のNFL殿堂入りを果たすことになるジョン・ハナが加入した[7]。この年のドラフトではチームの歴代通算ラッシングリーダーであるランニングバックのサム・カニンガム[8]やワイドレシーバーのダリル・スティングレーが加入、ヘッドコーチにオクラホマ大学のヘッドコーチとして成功していたチャック・フェアバンクスと契約した。シーズンを2勝7敗でスタートしたがその後3連勝し、5勝9敗で終えた。
1974年には開幕戦でスーパーボウルチャンピオンのドルフィンズに勝利するなど6勝1敗の好スタートを切ったがシーズン後半にわずか1勝しかあげることができず7勝7敗に終わった。
1975年、プランケットが負傷してしまい控えQBのスティーブ・グローガンでシーズンを戦った。3勝11敗に終わりシーズン終了後、チームはプランケットをサンフランシスコ・フォーティナイナーズに放出した。[9]
1976年、チームはプランケットのトレードで得たドラフト権を利用してディフェンスバックのマイク・ヘイズ、ティム・フォックスを獲得、先発QBには2年目のスティーブ・グローガンを起用した。開幕戦を落としたものの続く3試合にドルフィンズ、スティーラーズ、レイダーズとAFCの強豪を撃破、チーム創設以来最高の11勝3敗を記録して1963年以来のプレーオフ進出を果たした。プレーオフではレギュラーシーズンに48-17と圧勝したオークランド・レイダーズと対戦した。試合終盤21-17とリードして敵陣30ヤードまで攻め込んでグローガンがロン・フランシスを狙ってパスを投げたが相手ラインバッカーのフィル・ビリピアーノがフランシスのパス捕球前にヒットしたがペナルティは取られず、次のプレイで50ヤードのFGを狙い失敗に終わる。そしてレイダーズの攻撃で自陣27ヤードまで攻め込まれた3rdダウン18の場面、DTのレイ・ハミルトンがケン・スタブラーをサック、これで試合は決まったかに思われたが、レフェリーはラフィング・ザ・パッサーをコール、ペイトリオッツ陣内12ヤードでのファーストダウンが与えられた。続いて2つのアンスポーツマンライク・コンダクトの反則が取られ最後はスタブラーが残り10秒で1ヤードのタッチダウンランを決めて21-24で惜しくも敗れ去った。
1977年は、ジョン・ハナとレオン・グレイの契約が難航、9勝5敗でプレーオフを逃した。
1978年のプレシーズンゲームでスターWRのダリル・スティングレーがオークランド・レイダーズのジャック・テイタムのハードヒットを受けてほぼ全身麻痺となりそのまま引退に追い込まれた[10]。主力選手を失ったものの10勝4敗で迎えたビルズ戦、残り8秒でデビッド・ポージーの34ヤードのFGが決まると60000人のファンは一斉にグラウンドになだれ込んで地区優勝を祝った。最終戦の直前にヘッドコーチのフェアバンクスがコロラド大学ボルダー校のヘッドコーチとなることが明らかにされ試合前にフェアバンクスはチームオーナーのビリー・サリバンによってクビにされロン・エルハルトが指揮を執った。プレーオフ1回戦はフェアバンクスが再度サイドラインから指揮を執り、地元シェーファー・スタジアムで戦ったがヒューストン・オイラーズに敗れファンはヘッドコーチに対してブーイングを行った。
1979年、マンデーナイトフットボールとなった開幕戦のスティーラーズ戦にスティングレーが姿を現わしファンのスタンディングオベーションを受けた。1979年は7勝3敗と好スタートを切ったが最後の6試合で4敗し、9勝7敗に終わりプレーオフを逃した。
1980年はスターRBのサム・カニンガムがシーズン全試合を欠場、代わってルーキーRBのバーガス・ファーガスンがチームのルーキーラッシング記録を塗り替える活躍を見せて、6勝1敗でスタートしたものの10勝6敗に終わった。
1981年、過去2シーズンをプレーオフをわずかの差で逃していたチームはプレシーズンゲームを4連勝で終えてファンの期待は高まった。しかし開幕から4連敗しその後の3試合で2勝を挙げたが最後は9連敗で2勝14敗に終わり、同じく2勝14敗だったボルチモア・コルツに2勝を献上してしまうなどのていたらくであった。シーズン終了後ヘッドコーチのエルハルトはクビになった。
1982年、ロン・マイヤーを新ヘッドコーチに迎えストライキで短縮されたシーズン、Snowplow Gameと呼ばれたマイアミ・ドルフィンズとのゲームを3-0で勝つなど、8チームが出場したこの年のプレーオフに第7シードで出場を果たした。しかしマイアミで行われたプレーオフ1回戦でドルフィンズにレギュラーシーズンのお返しをされてプレーオフ未勝利が続いた。
1983年、新人QBのトニー・イースンをドラフト1巡で指名した[11]。チームは鍵になる試合を落とし8勝8敗でプレーオフを逃した。
1984年、ドラフトの全体1位でネブラスカ大学のWRのアービン・フライヤーを獲得、トニー・イースンが先発QBとなった。序盤を5勝2敗でスタートしたが連敗したところでマイヤーコーチは解雇されて新ヘッドコーチには元WRのレイモンド・ベリーが就任した。ベリーがコーチに就任してからの最初の4試合中3試合で勝利を収めたが12月に入って3連敗するなど9勝7敗でプレーオフ進出はならなかった。
1985年にベリーヘッドコーチは、イースンに代えてグローガンを先発QBとしたがシーズン終盤グローガンは左足を負傷、再びイースンが先発に返り咲いた。チームは6連勝するなど11勝5敗でシーズンを終えてワイルドカードでプレーオフ進出を果たした。この年ヘッドコーチのべりーは、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。プレーオフ1回戦でニューヨーク・ジェッツを破りプレーオフでの初勝利を挙げるとレイダーズ戦では6つのターンオーバーを奪い27-20でAFCチャンピオンシップ・ゲームに進んだ。そして同地区のライバルであるドルフィンズを20連敗していた敵地マイアミで破り第20回スーパーボウルへ出場、シカゴ・ベアーズと対戦することとなった。しかし、アービン・フライヤーが家庭内のトラブルで負傷したことが明らかにされるなど雑音を聞きながらスーパーボウルウィークを迎えることとなった。この試合チームは相手エースRBのウォルター・ペイトンのファンブルなどで3-0と先制したものの、ファーストプレイでTEのリン・ドーソンが負傷退場するなど、その後ベアーズに連続して46得点を入れられ[12]ゲーム終了前に1タッチダウンを取ったが、10-46とそれまでのスーパーボウル最大の得点差で大敗した。リーグベストのガードの1人と評価されていたジョン・ハナはスーパーボウル出場を最後に引退した。
1986年、チームはイースンからWRスタンリー・モーガンへのパスゲームをゲームプランの中心に組み立て、モーガンはレシーブで1500ヤード近くを獲得した。しかしラッシングオフェンスはリーグ最下位に終わった。11勝5敗で地区優勝を果たしプレーオフ1回戦で敵地デンバーに乗り込んだが第4Q終盤、ジョン・エルウェイからバンス・ジョンソンへのタッチダウンパスが決まりブロンコスに敗れた。その後チームは8年間プレーオフから遠ざかることとなった。
1987年、選手のストライキが起きた期間に地元ボストンカレッジ出身で1984年にハイズマン賞を取ったダグ・フルーティが加入した。ディフェンス選手の多くがストライキに参加してシーズン最後の3試合は別の選手がプレイした。
1988年、オーナーだったサリバンファミリーは事業の失敗などで巨額の損失を出したため8400万ドルでチームは売却された。このシーズンはフルーティが最初の5試合に先発したが、その後イースンが先発QBとなった。これは成功を修め9勝7敗となりわずかの差でプレーオフを逃した。
1989年、チームのディフェンスの中心だった3選手、アンドレ・ティペット、ガリン・ベリス、ロニー・リペットがプレシーズンゲームの同じ試合で負傷戦列を離脱してしまうという不運もあり5勝11敗に終わった。
1990年、フルーティはカナディアン・フットボール・リーグに移籍、長年ゼネラルマネージャーを務めていたディック・スタインバーグもジェッツのゼネラルマネージャーとなるためチームを離れた。ベリーヘッドコーチも解雇されてピッツバーグ・スティーラーズのディフェンシブ・コーディネーターであったロッド・ラストが新しいヘッドコーチとなった。この年チームは創設以来最悪の1勝15敗に終わる。9月17日、ボストンヘラルドの26歳の女性レポーターリサ・オルソンに対してチームのロッカールームでセクハラ行為を複数の選手が行ったことが報道された。このスキャンダルに対してNFLコミッショナーのポール・タリアブーエはチームに5万ドルの罰金、TEのゼーク・モワット、WRのマイケル・ティンプソン、RBのロバート・ペリーマンの3選手にもそれぞれ罰金が課された。[13][14]
[編集] 1992年から1997年まで
1992年にはチームが売却されてセントルイスへ移転するのではといった報道がなされた。しかし移転は行われずその年もチームは2勝14敗に終わった。シーズンオフにチームはヘッドコーチを解雇、ニューヨーク・ジャイアンツで2度スーパーボウルを制覇(1987年、1991年)したビル・パーセルズと契約した。1993年のドラフトではいの一番指名でドリュー・ブレッドソーを獲得した。このシーズンは5勝11敗に終わった。1994年にはドラフト1巡目全体4位でウィリー・マクギネスト(後に3度のスーパーボウル制覇に貢献)を獲得した。1994年にはシーズン途中3勝6敗と低迷していたが、最後の7試合を連勝して10勝6敗としてプレーオフ出場を果たした。しかし1995年には6勝10敗にとどまった。1996年シーズンチームは第31回スーパーボウルに出場を果たしたがグリーンベイ・パッカーズに21-35で敗れた。その試合を最後にパーセルズはジェッツに去った。
[編集] 1997年から2000年
パーセルズの後には、ピート・キャロルが就任した。1997年、ジェッツとの間で何人もの選手やコーチが移籍した。その中にはRBのカーティス・マーチンも含まれていた。1997年には10勝6敗で地区優勝を果たし、プレーオフ1回戦でドルフィンズを17-3で破ったがピッツバーグ・スティーラーズに6-7のロースコアゲームで敗れた。1998年には9勝7敗地区4位ながらプレーオフに進出したが1回戦でジャクソンビル・ジャガーズに敗れた。1999年序盤6勝2敗と好調だったがシーズン終盤失速して8勝8敗に終わりキャロルは解雇された。
[編集] 2000年以降
2000年シーズン、元クリーブランド・ブラウンズでヘッドコーチ、パーセルズのジェッツの基でアシスタントコーチとして修行したビル・ベリチックが就任した。就任1年目はディフェンス力が大きく向上したものの、オフェンスに難があり、5勝11敗と成績は振るわなかった。
2001年シーズン、ペイトリオッツ王朝が始まる。開幕前にはチーム再建期と見られ下馬評にも乗らなかったが、第2週のニューヨーク・ジェッツ戦でエースQBドリュ―・ブレッドソーがモー・ルイスの強烈なタックルをくらい、負傷退場し、控えQBのトム・ブレイディが登場する。この試合には負けたものの、その後、ベリチックHCが編み出したディスガイズディフェンスとブレイディによるゲームメイクオフェンスの両者が揃い、勝利を積み重ね、シーズン11勝5敗。AFC東地区、地区優勝を果たした。Tuck Rule Gameと呼ばれたディビジョナルプレーオフではオークランド・レイダーズを吹雪の中オーバータイムの末、逆転で撃破し、敵地ピッツバーグに乗り込んだチャンピオンシップでは負傷のブレイディに代わってブレッドソーが代役を果たし5年ぶりのスーパーボウル出場を果たした。
第36回スーパーボウルでは専らマスコミはQBカート・ワーナー、RBマーシャル・フォーク擁するセントルイス・ラムズの圧倒的な勝利を予想した。が、いざ試合が始まるとペイトリオッツディフェンスがCBタイ・ローのインターセプトリターンタッチダウンなどで、ラムズのハイパーオフェンスを抑え、オフェンスではブレイディの冷静なゲームメイクでペイトリオッツがリードする展開に。しかし、第4Q、ラムズの逆襲が始まり、17-17の同点となった。第4Q残り1分21秒、自陣17ヤードからブレイディがサイドラインパスやスパイクなどを使って残り07秒、フィールドゴール圏内まで前進し、最後はKアダム・ビナティエリが決勝フィールドゴールを残り00秒で決めた。当時全盛だったラムズを破ったことはリーグに衝撃を与えた。スーパーボウルMVPを獲得したブレイディはルックスの良さも手伝って、一躍NFLのスーパースターとなる。現地解説者のジョン・マッデンは「フィールドポジションも悪く、タイムアウトが一つも無い中で新人QB[15]がフィールドゴール圏内にまで持っていくのは無理だ。オーバータイムにまでもつれるだろう。」と解説していたが、ブレイディからWRトロイ・ブラウンにパスが通りFG圏内に迫ると、「This is Amazing.」と驚嘆している。試合終了後「That was great great Drive!」とも語っている。当時のスーパーボウル優勝QB最年少記録。[16]シーズンオフに元エースQBだったブレッドソーはバッファロー・ビルズに移籍した。
2002年には9勝7敗でジェッツとタイブレークとなったがプレーオフ出場を逃した。2003年シーズンは、最初の4試合で2勝2敗だったが、その後レギュラーシーズン12連勝を果たして14勝2敗、プレーオフも勝ち上がり、第38回スーパーボウルでカロライナ・パンサーズを残り04秒Kアダム・ビナティエリによる決勝フィールドゴールが決まり、32-29の接戦で破り2度目のスーパーボウル制覇を果たした。ブレイディが2度目のスーパーボウルMVPに輝き、真っ赤なキャデラックのスポーツカーを手に入れた。
2004年シーズンには前シーズンから続くNFL新記録となる21連勝(03年~)を達成した。レギュラーシーズン14勝2敗。QBドノバン・マクナブ率いるフィラデルフィア・イーグルスを24-21で破ってスーパーボウルを連覇した。スーパーボウル2連覇という偉業に加え、4年で3回優勝したことで、「Patriots Dynasty」(ペイトリオッツ王朝)と呼ばれた。この第39回スーパーボウルは第4Q開始時に同点だった初めてのゲームとなった。
2005年シーズンは、NFL史上初の3連覇が期待されたが、AFCディビジョナル・プレーオフでデンバー・ブロンコスに破れ、史上初の3連覇は夢と消えた。この敗因として、負傷者が相次いだことや、オフェンス・ディフェンス両コーディネーターが他チームのヘッドコーチに就任するために退団したことなどが挙げられている。なおワイルドカードプレーオフでジャクソンビル・ジャガーズを下し、プレーオフ10連勝というNFL新記録を樹立した。
2006年シーズンは、レギュラーシーズン12勝4敗。ディビジョナルプレーオフでシーズンMVPラディニアン・トムリンソンを擁するAFCトップの成績だったサンディエゴ・チャージャーズを24-21の逆転勝利で撃破しAFCチャンピオンシップ・ゲームに進んだがインディアナポリス・コルツに敗れた。このゲームでは序盤21-3とリードしながら最終的に34-38の敗戦となっている。(詳細はAFCチャンピオンシップ・ゲーム参照。)
2007年シーズン、チームは無敗のままリーグ最速で地区優勝を決めた。シーズンが16試合制となってからは初の16連勝を達成、ディビジョナルプレーオフ、カンファレンスチャンピオンシップも勝ち史上初のシーズン18連勝となった。2月3日のスーパーボウル決勝を勝ち抜けば、実に1972年シーズンのマイアミ・ドルフィンズ以来のシーズン全勝優勝、しかも現在のレギュラー16試合制以後では初の19連勝完全優勝なるかと注目されたが、ニューヨーク・ジャイアンツに14-17で敗退した。なお開幕戦のニューヨーク・ジェッツ戦で相手コーチが選手に送るシグナルをビデオ撮影するという違反行為を犯したため、2008年のドラフト1巡指名権を剥奪され25万ドル(約2,875万円)の罰金も課せられている。
[編集] その他
- 2001年シーズンは9.11アメリカ同時多発テロ事件後初めてのスーパーボウル(02年2月)でU2による愛国的なハーフタイムショウに加え、ペイトリオッツ(愛国者たち)が残り0秒で優勝決定、というアメリカ国民にとって感動的なスーパーボウルとなった。
- ペイトリオッツのホームスタジアム、フォックスボロでペイトリオッツが得点すると、ニューイングランドという名称が示すとおり、13人のアメリカ独立戦争当時の格好をした軍人が必ず当時のライフル銃で空砲を撃つ。
- 2001年の初優勝以来21世紀に入ってからすでに3度スーパーボウルを制しており、70年代のスティーラーズ、80年代の49ers、90年代のカウボーイズと並び”王朝”期と呼ばれている。
[編集] コーチ・フロント
- CEO ボブ・クラフト
- HC ビル・ベリチック:ゼネラルマネージャーを兼任している。
- オフェンス・コーディネーター
- ジョシュ・マクダニエルズ:06年から。ちなみに05年はベリチックがオフェンシブ・コーディネーターを兼任していた。
- チャーリー・ワイス:~04年まで。05年~母校ノートルダム大学フットボール部(Irish)のHC
- ディフェンス・コーディネーター
- ロミオ・クレネル:~04年まで。05年~クリーブランド・ブラウンズHC
- エリック・マンジーニ:04年までLBコーチだったが、05年にディフェンスコーディネーターに抜擢される。06年に同地区のライバル、ニューヨーク・ジェッツに引き抜かれる
[編集] 主な選手
[編集] 殿堂入り選手
- ジョン・ハナ John Hannah G 1973-85 1991年選出
- マイク・ヘインズ Mike Haynes CB 1976-82 1997年選出
- ニック・ブォニコンティ Nick Buoniconti LB 1962-68 2001年選出
[編集] 永久欠番
- 20 ジーノ・キャパレッティ Gino Cappelletti K/WR 1960-70
- 40 マイク・ヘインズ Mike Haynes CB 1976-82
- 56 アンドレ・ティペット LB
- 57 スティーブ・ネルソン Steve Nelson LB 1974-87
- 73 ジョン・ハナ G1973-85
- 78 ブルース・アームストロング Bruce Armstrong T 1987-2000
- 79 ジム・リー・ハント Jim Lee Hunt DL 1960-70
- 89 ボブ・ディー Bob Dee DL 1960-67
上の7選手に加えて、QB(14)スティーブ・グローガン, QB(15)ベイブ・パリ, WR(86)スタンリー・モーガンがペイトリオッツの殿堂入りを果たしている。また永久欠番にはなっていないがドリュー・ブレッドソーの11番は彼が2001年でチームを去った後誰もつけていない。
[編集] 現役選手
- QB トム・ブレイディ(12):スーパーボウル3度制覇の立役者。スーパーボウルMVP2回。
- WR トロイ・ブラウン(80)
- WR ランディ・モス(81):2007年、オークランド・レイダーズから移籍。
- WR ウェス・ウェルカー(83):ランアフターキャッチに秀でている
- WR ダンテ・ストールワース(18)
- WR ジャバー・ギャフニー(10)
- RB ケビン・フォーク(33)
- RB ローレンス・マローニー(39):2006年シーズンのドラフトで加入。したたかなランと、キックオフリターンに定評がある。
- TE ベンジャミン・ワトソン(84)
- TE カイル・ブレイディ(88)
- LT マット・ライト(72):試合終了間際の重要なFG時に中腰でいつも祈っている
- DE リチャード・シーモア(93):プロボウルの常連。
- LB テディ・ブルースキー(54):フィールド上でディスガイズディフェンスを指揮するディフェンスのQB。2005年シーズン、脳梗塞からシーズン途中に復帰し、カムバック賞に輝く。
- LB マイク・ブレイベル(50):守備選手ながらスーパーボウルで2つのタッチダウンを記録。(38回、39回)
- LB ジュニア・セアウ(55) : チャージャーズなどでプロボウルに何度も選出されている大ベテラン。
- LB アデイリアス・トーマス(95)
- LB ルーズベルト・コルビン(59)
- SS ロドニー・ハリソン(37)
- CB アサンテ・サミュエル(22):2006年シーズン、10個のインターセプトを記録する。チャンプ・ベイリーと並ぶリーグ最多記録。
[編集] 過去に在籍した選手
- K アダム・ビナティエリ:1996-2005年。スーパーボウルで2度決勝点となるFGを成功させた。
- WR ディオン・ブランチ:2002-2005年。第39回スーパーボウルMVP(11回のパス捕球記録、スーパーボウル最多タイ記録)
- RB コーリー・ディロン:2004年、シンシナティ・ベンガルズから移籍。移籍理由は、「スーパーボウルをとりたいから。」見事2004年シーズン、スーパーボウル優勝に貢献するが、05年06年シーズンは限界説がささやかれた。07シーズン前に引退。
- WR ディビッド・ギブンズ:2002-2005年
- LB テッド・ジョンソン:~2004年 脳震盪のため引退。ランディフェンスのスペシャリストだった。晩期では脳震盪の後遺症に悩まされ、ベリチックの彼に対する扱いはメディアの批判対象になった。
- CB タイ・ロー:レギュラーシーズンインターセプト9個記録。サミュエルに抜かれるまでのチーム記録。現在はカンザフシティ・チーフスに在籍
[編集] チアリーダー
- ローリー・バランスキ:ペイトリオッツチアリーダーのキャプテン。patriots.comでリポーターを務めている。
[編集] 脚注
- ^ Jim Nance statistics
- ^ NFL MVP player of the year
- ^ ネーミングライツでビールメーカーの名前「シェーファースタジアム」(1971年から1983年)、その後ペイトリオッツのオーナー一族の名前「サリバン・スタジアム」(1983年から1989年まで)と呼ばれた。
- ^ Past Heisman Trophy Winners National Champs.net.
- ^ Pro Football Draft History: 1971 Pro Football Hall of Fame.
- ^ NFL 1970 Team Rankings.
- ^ 彼は12年間ペイトリオッツのオフェンスラインを支えた。
- ^ All-time Leaders - Rushing Patriots.com.
- ^ プランケットは後にオークランド・レイダーズで2度のスーパーボウル制覇を果たす。
- ^ The amazing courage of Derek Stingley Pro Football Weekly.
- ^ この年のドラフト1巡目で指名されたQB6人の中では4人目の指名を受けている。
- ^ 冷蔵庫ペリー
- ^ Historical Moments:1990
- ^ Offensive Interference
- ^ ブレイディは00年入団だったが出場機会は皆無だったため、ほぼ新人と見られていた。
- ^ 2005年にピッツバーグ・スティーラーズのベン・ロスリスバーガーが塗り替える。
[編集] 関連項目
- en:New England Patriots seasons - チームのシーズンごとの成績。
[編集] 外部リンク
- New England Patriots (英語)
- ニューイングランド・ペイトリオッツ (NFL JAPAN)
- Patriots Fanzone @ Japan (日本語)
AFC | 東地区 | 北地区 | 南地区 | 西地区 |
---|---|---|---|---|
バッファロー・ビルズ | ボルチモア・レイブンズ | ヒューストン・テキサンズ | デンバー・ブロンコス | |
マイアミ・ドルフィンズ | シンシナティ・ベンガルズ | インディアナポリス・コルツ | カンザスシティ・チーフス | |
ニューイングランド・ペイトリオッツ | クリーブランド・ブラウンズ | ジャクソンビル・ジャガーズ | オークランド・レイダーズ | |
ニューヨーク・ジェッツ | ピッツバーグ・スティーラーズ | テネシー・タイタンズ | サンディエゴ・チャージャーズ | |
NFC | 東地区 | 北地区 | 南地区 | 西地区 |
ダラス・カウボーイズ | シカゴ・ベアーズ | アトランタ・ファルコンズ | アリゾナ・カージナルス | |
ニューヨーク・ジャイアンツ | デトロイト・ライオンズ | カロライナ・パンサーズ | セントルイス・ラムズ | |
フィラデルフィア・イーグルス | グリーンベイ・パッカーズ | ニューオーリンズ・セインツ | サンフランシスコ・フォーティナイナーズ | |
ワシントン・レッドスキンズ | ミネソタ・バイキングス | タンパベイ・バッカニアーズ | シアトル・シーホークス | |
シーズン | 開幕戦 | プレーオフ | AFC選手権 | NFC選手権 | スーパーボウル | プロボウル | アメリカンボウル | ||||
伝説 | TV | マンデーナイト | ドラフト | 選手会 | AFL | AFL-NFL合併 | NFLヨーロッパ | 消滅したチーム |