トーマス・J・ワトソン
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トーマス・ジョン・ワトソン・シニア(Thomas John Watson, Sr.、1874年2月17日 - 1956年6月19日)はインターナショナル・ビジネス・マシーンズ(IBM)社の創立者として知られている(正確には創立者ではなく、初代社長)。生前は世界一の富豪として知られ、死に際しては世界一偉大なセールスマンと呼ばれた。
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[編集] IBM以前
ワトソンはニューヨーク州キャンベルで生まれた。彼の正規の教育はエルミラ商科大学の課程だけである。18歳からニューヨーク州 Painted Post にある Clarence Risley's Market で簿記係として働き始めた。ミシンのセールスマン、楽器のセールスマンなどを経て1895年、バッファローのナショナル・キャッシュレジスター・カンパニー (NCR) にセールスマンとして入社。その後1908年、営業本部長(General Sales Manager)まで登りつめた。NCRの販売部門を建て直すため、ワトソンは "THINK"(考えろ)というモットーを導入した。これは後にIBMでも使用され、Thinkpadなどにその痕跡を留めている。
NCRで、彼は不当な反競争的商習慣(例えば、人を使って競合他社に意図的に故障させたキャッシュレジスターを売り、それが顧客の手に渡って故障していることが発覚したときに、NCRのセールスマンがやってきて新しいキャッシュレジスターを売りつける)のために有罪宣告された。彼は社長のジョン・パターソンと共に懲役1年を宣告された。彼らはオハイオ州デイトンの1913年の洪水の際に人道援助を行っており、この有罪宣告に対して大衆は彼らに同情的だった。1915年の控訴審で、ワトソン側の反証が認められるべきであったという理由で一審の判決はくつがえされた。ワトソンは共和党を非難し、生涯にわたって民主党員となった。
行き過ぎはあったが、NCRの販売手法は事務機器を販売するに当たっての最も効果的なものであった。例えば、販売特約店網の整備、直販営業部門の整備、セールスマンの歩合制とノルマ制、事務機器会社として世界初の開発部門の整備(マーケティング上有効)などである。当時の風潮として、事務機器を売るならNCRのセールスマンを雇えばよいとする考えが業界に存在していた。従って、裁判係争中のワトソンが後にIBMとなる会社に高待遇で迎えられたのも不思議なことではない。
ワトソンは1913年4月17日、ジャネット・M・キトリッジ(デイトンの鉄道家の娘)と結婚。2人の息子と2人の娘を儲けた。
[編集] IBMの誕生
ワトソンは1914年5月1日、ザ・コンピュータ・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー (The Computing-Tabulating-Recording-Company, C-T-R-Co) の社長に就任した。C-T-R社はハーマン・ホレリスのタビュレーティング・マシーンズ社などが母体となった企業で、ワトソンはホレリスの特許の有効性を見抜き、就任に当たって会社の利益の5%をもらうという契約をした。当時、従業員は400人程度であった。ワトソンはタビュレーティングマシン(パンチカードを使った情報処理装置)に業務を集中させ、1924年、社名をInternational Business Machines Corporation (IBM) に改称。ワトソンはこの会社を強力に育て上げた。
ワトソンは、自身の職務の最重要部分は販売部門の動機付けと心得ていた。セールスマン養成学校のIBMスクールを設立し、NCRの販売手法(ノルマ制、歩合制など)など彼の販売理論を教え込んだ。社では彼への個人崇拝が広まり、全社に彼の写真や「THINK」のモットーが掲げられた。社歌ではワトソンへの賛美が歌われた。
1929年の世界恐慌に際しても、ワトソンが導入した賃貸制(機械を顧客に販売するのではなくリースして賃料を得る)により、IBMは新たな販売が滞っても既にリースしている多くの顧客から安定した収入が得られるため、不況にも影響を受けにくい体質ができていた。また、IBMの安定経営を支えるものとしてパンチカード自体の販売がある。顧客は機械が紙詰まりを起こさないようにするためにIBM製のカードを購入しなければならない。これは、カメラも販売するフイルム会社や電気かみそりの替え刃を販売する会社などと同じ発想である。ワトソンは新規販売が激減しても強気で工場をフル稼働させ、大量の在庫を抱えた。しかし、フランクリン・ルーズベルトが大統領となりニューディール政策が実施されるにあたって、全国の労働者の雇用記録を整理する必要が生じ、そこにIBMの在庫が大量に導入されたのである。
[編集] 第二次世界大戦前夜・戦中
生涯にわたって、ワトソンは国際関係に深い興味を持っていた。彼はIBMのスローガンとして「World Peace Through World Trade(国際貿易を通じた世界平和)」を掲げ、国際商工会議所とも緊密に連携し、1937年にはその会頭となっている。「World~」は、国際商工会議所とカーネギー財団の合同委員会による調査のタイトルともなった。また、民主党員としても突出した実業家であった。ワトソンはコロンビア大学の評議員も務めており、ドワイト・D・アイゼンハワーの学長選での工作を行った。
ワトソンはムッソリーニに傾倒し、社長室の机に彼の胸像を置いたりした[要出典]。IBMのヨーロッパ子会社デホマク (Dehomag)(のちのIBMドイツ)は、ナチス・ドイツの国勢調査のためのパンチカード機器を提供した。この機器はドイツにとって不可欠だったため、デホマクはドイツによる外国企業接収政策の例外とされた。デホマクの製品はユダヤ人の識別にも使われた。国際商工会議所会長就任直後の1937年、ワトソンはベルリンを訪問し、6月28日にドイツ首相アドルフ・ヒトラーと会見を果たした。ワトソンはヒトラーに平和を訴え、不戦の約束を取り付けた。この訪独で、ヒトラーからEagle with Star メダルを授与されている。外国人に許される勲章としては2番目に高位のものである。これらの動きにより、アメリカ企業の対独進出はいくらか回復した。また、ソビエト連邦ともビジネスで関係を持った(後に長男はカーター政権で駐ソ大使となっている)。
しかし、ヒトラーはワトソンへの約束を無視し、第二次世界大戦が勃発した。ワトソンはメダルを返還し、開戦を非難した。ヒトラーはこれに怒り、ワトソンの入国を禁止し、デホマクの重役をナチと関係者に挿げ替えた。ただしその交換条件としてデホマク株の所有権は認められ、引き続き配当が支払われた。IBMはその後、米国の戦争準備と戦争に深く関与した。社を挙げた戦争支援が行われ、軍に入隊した社員へは給与の4分の1が支払われ、軍向けの収益は全額が戦死した社員の遺族への基金とされた。
[編集] 戦後
終戦のころから、ワトソンは、些細なことで激怒するなど情緒が不安定になり、周囲との軋轢が増した。空軍からIBMに戻った長男のトーマス・J・ワトソン・ジュニア(IBM関係者にはトムと呼ばれることがある)との対立も激しくなった。
ワトソンは1949年9月にIBMの名誉会長に就任した。同年、トムは副社長に就任している。朝鮮戦争をきっかけにトムは軍向けのコンピュータ事業へ大規模な投資をしようとしたが、ワトソンはリスクを恐れ消極的だった。1952年には司法省が独占禁止法違反でIBMを訴えた。IBMは当時、米国内のタビュレーティングマシンの90パーセントのシェアを持っていた。トムはワトソンの反対を無視し、独断で同意にサインした。しかしワトソンは秘書を通じトムに「100%お前を信頼し評価する」と伝えた。
1956年5月8日、ワトソンはIBMの経営権をトムに引き継いだ。翌月、82歳で死去。死期を悟ったのだろうとトムは語っている。