トーマス・ブレーク・グラバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover, 1838年6月6日 - 1911年12月13日)は幕末に活躍した商人で、明治以降は高島炭鉱の経営に当たる。もともと武器商人であるが、蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街・長崎の基礎をつくった。
[編集] 生涯
スコットランド・アバディーンシャイアで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5番目として生まれる。ギムナジウムを卒業。1859年、上海に渡りジャーディン・マセソン商会に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後にジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立。貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが、八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもしている。
1865年(慶応元年)には、大浦海岸において日本で初めて、蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を製造して本業にも力を注ぎ、1868年(明治元)、肥前藩と契約して高島炭鉱の開発に着手。また、長崎の小菅に船工場(史跡)を作っている。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)グラバー商会は破産するが、高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まる。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも、所長として経営に当たった。また、1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。
私生活では日本人の談川ツルと結婚し、長女・ハナ、長男・倉場富三郎(Thomas Albert Glover, グラバー→倉場)が誕生する。(ツル以前に内縁の広沢園との間に梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している)
晩年は東京で過ごし、1908年(明治41年)、外国人としては初めて勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内にある。邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在長崎の観光名所となっている。
グラバーはスコットランド系フリーメイソンリー(フリーメイソン)といわれるが、根拠はない。邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものを1966年に寄贈され、移設したものである。