テッセルのグルジア人捕虜蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テッセルのグルジア人捕虜蜂起 (―じんほりょほうき、Gerogian Uprising of Texel) は、ソビエト連邦グルジア共和国のグルジア人捕虜が、オランダのテッセル島(Texel または Tessel)において、第二次世界大戦中の1945年4月5日から5月20日の間に、当地を占領統治していたドイツ軍に対して起こした暴動のことである。これは、しばしば「ヨーロッパの最後の戦場 "Eupope's last battlefield"」とも呼ばれる。
[編集] 概要
テッセル島は、オランダのアムステルダムから北に75kmほどの位置にある。海岸部にあるため、ドイツの沿岸防御地帯・通称「大西洋防壁」における極めて重要な地点として、防御が強化されていた。ここでのグルジア人は、東部戦線においてソビエト軍の兵士として、ドイツ軍と戦っていたものたちであった。彼らはドイツ軍捕虜収容所で飢えているよりは、収容所の外に出ることを望んでもいた。そして、待遇改善の意識により、ドイツ軍の補助部隊に参加した。その後、ドイツ軍捕虜収容所があるテッセル島へ配置された。
連合軍の上陸侵攻が近いと言う期待から、1945年4月5日から6日にかけての夜にグルジア人は蜂起した。ドイツ軍に対し辛勝を収め、この島を短期間管理下においた(この夜、およそ400名のドイツ軍兵士が戦死した)。しかし、島の北部と南部にある砲台を占拠することには失敗した。こうしてドイツ軍の増援を止めることができなかったため、ドイツ軍は、装甲車輌も含めたオランダ本土からの増援部隊が反撃を行い、数週間の激戦の末、島を奪還した。
このロシア戦争(テッセル蜂起)で、およそ800名のドイツ軍兵士、570名のグルジア人、そして120名のテッセル島住人が死亡した。その被害は甚大で、多数の農場が炎上した。この無意味な流血は、1945年5月5日ドイツ軍のオランダ及びデンマーク降伏、および1945年5月8日のドイツ軍将校の投降に至るまで続いた。1945年5月20日になって、ようやくカナダ軍がこの「ヨーロッパの最後の戦場」を鎮圧した。
[編集] 戦後
戦死したグルジア人は、同島のオーデスチルト(Oudeschild)近くのホーゲベルグ(Hoge Berg)の軍人墓地に埋葬された。生存者はハッピーエンディングを迎えられなかった。ヤルタ会談の決定に従って、彼らはドイツ軍捕虜収容所から解放後、ソビエト連邦に強制的に送還された。スターリンは、彼らが東部戦線において投降し、ドイツ軍の捕虜となり、戦死するまで戦闘をしなかったことを反逆とみなし、連合軍が強制送還した200万人の捕虜共々本国に戻り次第処刑した。
テッセル島の空港にある航空博物館内に、この事件に関する常設展示がある。
[編集] 外部リンク
- Texel's Official Website (in Dutch) (テッセル島案内。オランダ語の他に、英語解説あり)
- Georgian uprising article (本件の解説サイト。英語)