ジョージタウン (ワシントンD.C.)
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ジョージタウン(英語表記:Georgetown)はポトマック川河岸沿いの、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.北西部近郊の名称。ワシントンD.C.が設立する以前は独立した都市であった。
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[編集] 地理
ジョージタウンは、南はポトマック川に、東はロック・クリークに、北はグラバー・パークに、そして西はジョージタウン大学に境を接しており、特に西側近隣の区域は、ポトマック川を見渡す絶壁に位置している。そのため、北と南を結ぶ通りにはやや急な坂道が多い。特にM・ストリートとプロスペクト・ストリートを繋ぐ「エクソシスト・ステップス」と呼ばれる有名な階段は、周辺の小高い地形によって急勾配になっている。
ジョージタウンで商業的に最も重要な通りはM・ストリートとウィスコンシン・アヴェニューであり、ここに並ぶ高級ファッション店は年間を通じて観光客と買い物客を大勢集めている。また河岸に面したK・ストリートの成長もめざましく、アウトドア形式を呼び物にしたバーやレストランは、ボートレースを観戦するのに人気のスポットである。M・ストリートとK・ストリートの間には歴史あるチェサピーク・オハイオ運河が流れ、今日ではツアーボートが定期運航しているほか、両岸に接する小道をジョギングしたり散歩する人も多い。
ジョージタウンには、ジョージタウン大学の主要キャンパスや、フランス、モンゴル、タイ、ウクライナ大使館がある。この他の観光名所としては、
- ダンバートン・オークス ― 1944年に国際連合設立の会議が開催。
- オールド・ストーン・ハウス ― 1765年に建てられ、M・ストリートに位置するワシントンD.C.で最古の建造物。
- マウント・ザイオン・セメタリー ― 初期ワシントンD.C.のアフリカン・アメリカン達へ無料の埋葬を求めた地。
- テューダー・プレイスとダンバートン裁判所
- オークヒル・セメタリー ― アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンの息子であるウィリーや他の著名人が眠る墓地。ウィリアム・ウィルソン・コーコランによって寄贈され、墓地内のゴシック調のチャペルと門は建築家ジェームズ・レンウィックによるデザイン。
などが挙げられる。
[編集] 沿革
ジョージタウンは1696年にヨーロッパ人によって建設された。メリーランド地方(初期のフレデリック、後のモントゴメリー郡)のイギリス植民地の一部とされた1751年に初めて正式に都市として認められ、その後13植民地の一部になった。海岸平野と古い山地との境にできる瀑布線に位置しており、外洋航行の船舶がポトマック川を遡上すると最も奥まった地点にあった。そうした立地が港に適していたため繁栄し、ポトマック川の船舶からチェサピーク・オハイオ運河の船舶へ、タバコなどの貨物を運送する重要な中継地点となったのである。
ジョージタウンはフランシス・スコット・キーの故郷でもある。キーの親戚であるウィリアム・ビーンズ博士は、米英戦争の際、イギリス軍がワシントンD.C.を襲撃した時にその後方部隊によって拘束された。イギリス軍は退却する時、ビーンズ博士をボルチモア近くのイギリス艦隊へ捕虜として連行した。ビーンズ博士の釈放を求めて艦隊に赴いたキーは抑留され、イギリス軍の戦艦がマクヘンリー砦を攻撃した時、砦に立つアメリカ合衆国の国旗を目にし、アメリカ合衆国の国歌の歌詞を思いついた。
[編集] 名称の起源
ジョージタウンは1751年にメリーランド州フレデリック郡(後にモントゴメリー郡へ分割)に、ジョージ・ベオルとジョージ・ゴードンが「タウン・オブ・ジョージ」として設立した。両設立者の名前が同じジョージだったことと、当時のイギリス王の名もジョージであったという偶然の一致があったため、この都市の名はジョージ2世を称える目的で名づけられたものだとする説がある一方、二人の設立者の名を取ったものだとする説もある。[1]
[編集] ワシントンD.C.との合併
アメリカ独立戦争後、ジョージタウンはワシントン市、アレクサンドリア市、そして新たに創設されたワシントン郡とアレクサンドリア郡(現在はバージニア州アーリントン郡)と共に、連邦コロンビア特別区の独立市政となり、「コロンビア特別区ジョージタウン市」となっていた。
1862年、ワシントン・ジョージタウン鉄道会社が馬車鉄道線をジョージタウンのM・ストリートとワシントン市内のペンシルベニア・アヴェニュー沿いに敷設した。これが2つの都市を統合へと導く大きな要因になった。
ジョージタウンは1871年まで正式にはワシントン市と併合されることはなく、また1895年まで名目上は別個の都市のままであった。併合の際にジョージタウンの通りの名称はワシントン市内の通りで使われている通りの名称に合わせて改名された。
[編集] 後年
南北戦争で多くのアフリカン・アメリカン達がジョージタウンに移り住んでコミュニティを造ったが、1890年の洪水と鉄道の拡大がチェサピーク・オハイオ運河の隆盛に終止符を打ち、ジョージタウンは貧しいスラムが増えた。しかしその結果、多くの古い家屋が比較的よい状態で保存されることになった。
河岸地域は20世紀前半までその産業的特徴を保っていた。そのためジョージタウンは木材工場やセメント工場、製肉工場の拠点となり、ごみ焼却炉の煙突がそびえ立っていた。1949年には、自動車が都心部へ行く際にジョージタウンのキー・ブリッジを介してワシントン市内へ迂回して進入できるよう、K・ストリート上方の高架高速道であるホワイトハースト・フリーウェイが建設されている。
[編集] 高級住宅化
当初ジョージタウンは、新しく形成されたコロンビア特別区内において、ファッション・文化の中心的役割を担う唯一の都市であった。しかしワシントン市が発展するにつれ、同市の社会的中心はロック・クリークを越えて、市内の環状交差路周辺に現れた新ヴィクトリア朝様式の住居や、マサチューセッツ・アヴェニュー沿いに増え始めた好況の時代を代表するような高級住宅群が建ち並ぶ東側へ移っていった。多くの「古き一門」がジョージタウンに居残っていた一方で、20世紀初頭には近隣に住む人々はすでにその古き良き全盛期を過ぎていたのである。 アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルト政権下の数人の政府関係者が周辺地域に移り住み、高級住宅化が進み始めた1930年代の間に、近隣住民たちは再び過去の栄光を取り戻し始めた。1950年代頃、新戦後居住者の波が訪れた。こうした新しく住み始めた人々はエリートの来歴を持ち、教養があった為、近所に住む人々の歴史的にも重要な生活や姿に強い関心を抱いた。これとほぼ同時期に、ジョージタウン市民組合が結成された。ジョージタウンに住んでいた合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディが大統領に選出された際、地域一帯の上流社会性は頂点に達した。ケネディ大統領は1950年代に国会議員(上院議員)を務めていた際、ジョージタウンに住んでいた。その間行われた社交パーティーは妻のジャクリーン・ケネディ・オナシスが主催し、ほかジョージタウンに住む多くのパーティー主催者は中心部のクラブやホテル、または北部の16番ストリートから離れた場所で政治エリートを招くなどした。またケネディ大統領は1961年1月に3307 N・ストリートにある自身のタウンハウスで大統領就任式を行った。それ以来、ジョージタウンはアメリカ合衆国首都圏の富と品格の先導的中心地としての地位を確立したのである。
[編集] 現在
多くの政界、メディア関係、財界の先頭に立つ人々がこの地域に住んでいる。現在の著名な人物としてはマサチューセッツ州選出の上院議員ジョン・ケリー、前ワシントン・ポスト紙編集者のベンジャミン・C・ブラッドリー、第64代アメリカ合衆国国務長官マデレーン・オルブライト、クリントン政権補佐官ジョージ・ステファノプロス、モンタナ州議員マックス・ボーカスなどの名が挙げられる。最高度の土地開発と高級住宅化は、以前のジョージタウンにおいて繁栄し、衰退していた産業河岸を再びよみがえらせることとなった。昔の名残を留めるもののひとつに、史跡として保存され、2003年時点で新しく建設されたリッツ・カールトンホテルに合併された廃棄物焼却炉の煙突がある。一方、ホワイトハースト・フリーウェイは取り壊しが提案されている。
[編集] 交通
地下鉄線の拡張や、一帯へ進入できるようにするためポトマック川の下にトンネルを増築する議論が行われてきたが、現在ジョージタウンにはワシントンメトロが直接通っていない。ロズリン駅(アーリントン川からキー・ブリッジを渡る)、フォギー・ボトム・GWU駅、デュポン・サークル駅の3つの地下鉄駅が、ジョージタウン中心部からおよそ1マイルほど離れているものの最寄り駅である。また、ジョージタウンへは地下鉄バスと循環バス「DCサーキュレーター」も運行している。加えて、GUTS(ジョージタウン大学シャトルバス)がジョージタウン大学にあるリーヴィー・センターから大学関連の場所と、地下鉄デュポン・サークル駅及びロズリン駅に停車する。大学に関係する生徒や職員などの身分証を持っていれば、無料で利用できる。[2]
[編集] 大衆文化との関連
これまで多くの映画がジョージタウンで撮影されてきたが、中でも有名なのは1973年製作のホラー映画、「エクソシスト」であろう。映画の最高潮で、主役を演じる俳優がプロスペクト・ストリートと36番ストリート下にあるM・ストリートを繋ぐ全75段の急な階段に身を投げるシーンがあった。この階段は「エクソシスト・ステップス(エクソシスト階段)」と命名されている。他にジョージタウンが舞台である映画に1984年製作のブラット・パックの名作、「セント・エルモズ・ファイア」があるが、映画の一部はメリーランド大学カレッジパーク校で撮影されたものである。また、上述のように地下鉄「ジョージタウン駅」は実在しないが、1987年製作の映画「追いつめられて」では架空の同駅が登場する。
[編集] 参考
以下は翻訳元である英語版の出典項目である。
- ジョージタウン歴史概観 ― ジョージタウン・パートナーシップより
- ゲーリー・グリフィス 「ホワイトハースト・フリーウェイは取り壊されるのか」 ― ウエストエンド・ガイドより
- マット・スロヴィック 「D.C.ムービーズ:エクソシスト」 ― ワシントンポストより
- アンドリュー・ステフェン 「ジョージタウンの隠された歴史」 ― ワシントンポスト、アクセス日時2006年7月16日より
- ジョージタウン初期の歴史
他参考サイト
- 国立公園局サイトより (英語)
- コロンビア特別区自治の歴史 (英語)
[編集] 外部リンク・参考
- ジョージタウン・パートナーシップ(英語)
- ジョージタウン・カレント (地方新聞) (英語)
- ザ・ジョージタウナー (地方誌) (英語)
- USGS GNIS