ギリジャ・プラサド・コイララ
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Girija Prasad Koirala, ギリジャ・プラサド・コイララ (1921年, インド, ビハール州生まれ)は、ネパールの現首相で暫定的な元首(Head of State)。ネパール制憲議会議員。ネパール会議派総裁。7党連合代表。
首相は4回務めている。任期は次の通り。
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[編集] 政治的経歴
- 1948年ネパール労働組合会議を創設。
- 1952年ネパール会議派モラン郡の地方支部長。
- 1960年、マヘンドラ国王のクーデターで逮捕される。
- 1967年釈放、インドに亡命。
- 1975年亡命先でネパール会議派総書記に就任。(-1991年)
- 1979年帰国。
- 1990年民主化運動(ジャナ・アンドラン)を指導。パンチャヤット制の廃止、複数政党制の導入などに貢献。
[編集] 首相第1期
1991年、初めての複数政党制による総選挙で当選。ネパール会議派は下院の205議席中110議席を制した。これにより、コイララはビレンドラ国王から首相に任命される。 はじめの任期中、下院は教育、メディア、保健部門の自由化に関する法案を通過させた。 政府はまたパーワンチャル大学を創設。また、東部州にB.P.コイララ保健・科学大学(BPKIHS)を設立、多くの地域で医療と工学の私立大学を認可した。政府はまた、中国の援助を受けて、バラトプールにBP記念がん病院の建設に着手した。
1994年11月、コイララは解散総選挙に追い込まれる。手続き的な問題で、36人の与党の議員が信任投票に反対したためである。選挙後、統一共産党主導の連立内閣が成立した。
[編集] 首相第2期
コイララはタパ内閣の連立の崩壊の後を受けて、首相を引き継ぐ。1998年12月25日までは、ネパール会議派の少数内閣であったが、それ以後、統一共産党、ネパール友愛党との3党連立内閣となった。
[編集] 首相第3期
コイララは2000年、議会選挙で勝利を収めたクリシュナ・プラサド・バッタライ首相の辞任後、首相となる。ネパール会議派はバッタライを首相にするといって選挙を戦って勝ったのであるが、コイララは造反議員のグループを率い、不信任をちらつかせてバッタライを辞任に追い込んだのである。このとき、ネパールはネパール共産党毛沢東主義派の反乱により内戦を戦っていた。この第3期の間、コイララ首相は汚職の申し立てにより悩ませられた。ネパール王族殺害事件の後、コイララは危機管理能力の欠如が露呈し、さらに批判される。
2001年7月、内戦にはじめて軍を動員した後、コイララは辞任する。後任にはデウバ元首相がネパール会議派の多数の支持により選出された。
[編集] 首相第4期
民主化運動「ロクタントラ・アンドラン」により、ネパール下院が回復した後、2006年4月24日、コイララは7党連合の指導者たちによって首相に選ばれた。回復した下院は、国王の権力を奪う諸法案を可決し、国軍にシビリアン・コントロールをもたらした。 暫定憲法の発布以来、コイララは首相として、暫定的な元首となっている。 2007年4月1日、コイララは7党連合とマオイストからなる新政府のトップとして再び首相に選ばれた。
2008年4月の制憲議会選挙に引き続き、議会は5月28日ネパールの共和制宣言を可決した。投票の少し前、コイララは制憲議会で「今やわれわれには大きな責任がある」と語った。ネパールは「新しい時代」に入ろうとしており、「国家の夢が実現した」と述べた。
一方、選挙で会議派がマオイストに敗れたため、今後の去就が注目されている。会議派はコイララを初代大統領に望んでいたが、毛派などは反対に合って6月19日断念。[1]健康を害し、酸素吸入をしながら演壇に上がっていたという。マデシ人権フォーラム代表のウペンドラ・ヤダヴはコイララのことを「普段の生活でさえ酸素吸入が必要なコイララは大統領には不適である」と指摘していた。[2]
[編集] 参考文献
[編集] 親族
両親:Krishna Prasad Koirala, Divya Koirala
兄: