ウィリアム・アダムス
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ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年6月16日)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。日本名の三浦 按針(みうら あんじん)としても知られる。
按針の墓は長崎県平戸市の崎方公園にある。また神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には按針夫妻の慰霊碑があり、1923年3月7日、国の史跡に指定された。
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[編集] 生涯
[編集] 生い立ちと青年時代
イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海技術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に英国海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを設けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったらしい。
[編集] リーフデ号の航海
航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムズは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
- ホープ号("希望"の意・旗艦)
- リーフデ号("愛"の意)
- ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
- トラウ号("忠誠"の意)
- フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)
司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。
だが航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが始めいたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病の蔓延、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまったのである。こうして出航時に110人だった船の乗組員は、僅かに24人にまで減っていったのである。
[編集] 日本漂着、家康の引見
1600年4月19日(慶長5年3月7日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。
結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらが大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。
[編集] 三浦按針となる
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場を遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、これに気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。
この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦 按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦半島に因む)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。