臼杵城
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臼杵城 (大分県) |
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城跡公園 |
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通称 | 丹生島城、巨亀城、金亀城、亀城 |
城郭構造 | 連郭式平山城(海城) |
天守構造 | 三層四階(非現存) |
築城主 | 大友宗麟 |
築城年 | 文禄3年(1594年) |
主な城主 | 大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏 |
廃城年 | 明治6年(1873年) |
遺構 | 曲輪、畳櫓、卯寅口門櫓、石垣、空堀、堀 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 大門櫓 |
位置 | 北緯33度7分18.59秒 東経131度48分14.77秒 |
臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にある中世から近世にかけての平山城跡(海城跡)。大分県指定史跡。戦国時代、大友宗麟により築かれ、江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。
[編集] 概要
臼杵城は、戦国時代の弘治2年(1556年)、府内大友館より拠点を移した大友宗麟により、臼杵湾に浮かぶ丹生島に築かれた平山城(海城)である。
大友氏改易後、石田三成の妹婿である福原氏、太田氏を経て、関ヶ原の役後は、慶長5年(1600年)に郡上八幡より5万石で稲葉貞通が入封した。以降、明治維新まで、稲葉氏15代の居城となった。
城には三層四階の天守と31基の櫓が上げられた。総二階造り(上下階の平面がが同規模)の重箱と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった。廃藩後は天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられ、かつての海城の威光は失われた。
[編集] 遺構
現在、城郭主要部は公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存する。