ロドリゴ・デ・ビベロ
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ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ(Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年 - 1636年)は、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)生まれのエスパーニャ人植民地政治家。江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、「ドン・ロドリゴ」の名でよく知られる。
1595年サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長兼市長、1597年タスコ市長、1599年ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官を経て、前総督在任中の死去にともない1608年に臨時総督としてフィリピンに派遣される。
フィリピン臨時総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送り、ヌエバ・エスパーニャと日本との交流が始まる。
1609年次期総督と交代のため召還命令を受け、戦艦3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」は、9月28日 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜で難破、地元民に救助される。なお僚艦の「サンタ・アナ号」も、9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し、もう一隻の「サン・アントニオ号」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。
地元民に救助されたロドリゴ一行は、時の大多喜藩主本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名、1610年8月に日本を出発し、同年10月ヌエバ・エスパーニャに帰還した。この日本滞在中の見聞録は「ドン・ロドリゴ日本見聞録」として今に残されている。
サン・ブエナ・ベントゥーラ号には、ヌエバ・エスパーニャとの交流拡大を目指す家康の使節アロンソ・ムニョス神父や京の商人田中勝介らも同乗した。その翌年の1611年、田中勝介らとともにヌエバ・エスパーニャからセバスティアン・ビスカイノが答礼使として来日し、1613年にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗し帰国した。
後に、日本が開国し諸外国と国交を開いた際不平等条約が当然だったなか、1888年(明治21年)に締結した日墨修好通商条約が平等条約だったのは、メキシコと日本はこのころから交流のある互いに対等な国家だったからであり、欧米列強との不平等条約を改正できた背景にこの友好的な日墨関係があるとも言われている。
現在、ロドリゴ一行が本多忠朝の居城大多喜城に立ち寄る際に通ったコースを走るロドリゴ駅伝が、打ち上げられた御宿町、いすみ市(旧大原町、夷隅町、岬町)、大多喜町で開催されている。