イランの国際関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
目次 |
[編集] 概要
イランの外交政策は1979年のイラン・イスラーム革命以降、アーヤトッラー・ホメイニー体制のもと、欧米との関係を中心にモハンマド・レザー・シャー期のそれから劇的に変化した。しかし革命後の初期は理念的・強硬な外交政策が追求されたものの、イラン・イラク戦争を経て、現実的・合理的な外交政策がとられるようになっている。ただし時にスローガンに基づく理念的な面が政策に影響することもある。
2000年前後からイランは近隣諸国、特にサウジアラビアとの関係改善において大きな進展を見せた。イランの地域における目標は、リーダーシップの確立を希求することによって従属的な立場を脱し、かつアメリカ合衆国など外部勢力のプレゼンスを削減、通商的関係を構築することにある。概括的にイランの外交政策では次の3つの柱が重視される。
- 反合衆国、反イスラエル。合衆国はペルシア湾における軍事的脅威であり、パレスチナ支援を国是とする点から必然的に反イスラエルの立場がとられる。詳細はアメリカ合衆国とイランの関係、イスラエルとイランの関係を参照。
- 域外勢力の影響力排除。イランは自国を地域大国(リージョナルパワー)とみなし、合衆国や連合王国のような世界大国(グローバルパワー)がその立場を占めることを警戒し、可能な限りこれらのペルシア湾でのプレゼンスを弱めようとする。
- 発展途上国および非同盟諸国との外交関係強化を追求。革命以前の合衆国による支援を失ったことにより、通商および政治的支援を得るためである。
上記のような基本方針はあるものの、観念と現実の両極のあいだに揺れるイランの政策のため、二国間関係においては混乱・矛盾が生じていることも多い。
[編集] 歴史
[編集] 革命直後 (1979年 - 1980年)
革命以降のイランの国際関係は著しい変化をみせた。その要因はさまざまであるが、最も重要なものは西側に対するイランの反発である。これはシャーの支配に対する西側の支持が根源となっている。強硬かつ攻撃的なイスラーム外交政策がとられ、ペルシア湾の対岸にイスラーム革命の理想を敷衍しようとした。すなわち「革命の輸出」である。結果的にイランは外交的に孤立することになり、アメリカ大使館人質事件に至るのである。
[編集] イラン・イラク戦争の時代 (1980年 - 1988年)
イランの革命輸出戦略は、多くのアラブ諸国との関係を緊張させた。1981年にイランはバーレーン政府の転覆計画を支援。1983年にはクウェートにおけるシーア派による西側大使館爆破への政治的支持を表明。1987年、サウジアラビアのマッカで、巡礼中のイラン人が劣悪な待遇に反発して暴動を起こし鎮圧に際して多数の死傷者を出している。原理主義的運動の強いエジプトやアルジェリアなどの諸国はイランに不信感を抱きはじめた。イスラエルのレバノン侵攻にあたっては、イランはヒズブッラーの結成を支援したと考えられている。さらにイランはイスラエルの存在を非合法とみなし、中東和平交渉への反対を主張し続けた。
またヨーロッパ諸国との関係でも、イラン情報機関による在欧の急進反体制派の殺害により、特にフランスとドイツに懸念を抱かせることとなった。
イラクとの関係は歴史的に良好であったことがないが、1980年にはイラクがイランに侵攻し、さらに悪化することになる。侵攻の理由として明示されたのはアルヴァンド川(シャットルアラブ川)水面上における両国国境の確定問題であった。しかしながら明示されていない諸要因がより説得的なものである。すなわち、イラン・イラク両国が双方国内の分離主義運動を支援し、相互の干渉を行ってきていたことなどである。このような行動は1975年のアルジェ合意で停止されたが、イランは革命後にイラク領クルディスタンにおけるゲリラ活動支援を再開していた。
イランは、両国が調印した1975年のアルジェ合意に基づき、アルヴァンド川の原状回復とイラン領内からのイラク軍の撤退を要求した。しかしこの時期、イランは孤立を深め、実質的に同盟国は皆無の状況であった。イランは戦争によって極端に疲弊し、アメリカ合衆国およびドイツによる対イラク化学兵器供給開始後の1988年7月に国際連合安全保障理事会決議598に署名。同8月20日、停戦が発効した。両国ともこの戦争から得た利益は皆無であった。両国で100万、うちイランは70万の死者を出し、これはイランの外交政策に劇的な影響を及ぼしたのである。こうしてイスラーム体制政府は、それまでの急進的政策目標を緩和、合理化する以外に道はないことを自覚した。アヌーシールヴァーン・エフテシャミーの言うイラン外交「再編」段階のはじまりであった。
[編集] イラン・イラク戦争後 (1988年 - 現在)
イラン・イラク戦争終結後の新外交政策は、イランの世界的外交地位を急激に変化させた。欧州連合との関係では主要な石油の輸入元としてイタリア、フランス、ドイツなどとの関係が大いに改善。また中国やインドはイランの支援国となっている。中国、インド、イランは世界経済において類似の問題、すなわち工業化とそれに伴う多くの問題に取り組む国家であり連携を深めたのである。
ロシアおよび旧ソヴィエト連邦諸国との定期的外交関係および通商関係も維持している。イランおよびロシアは、中央アジアおよびザカフカズの開発、特にカスピ海エネルギー資源に重要な国益が賭けられていると考えており、両国関係の基軸となっている。またロシアによる軍事的装備および技術のイランへの売却は、イランの近隣諸国およびアメリカ合衆国の懸念のもととなっている。
[編集] 歴史的に重要な諸条約
- ゾハーブ条約
- トルコマーンチャーイ条約
- ゴレスターン条約
- アーハル条約
- パリ条約 (1857年) (同条約によりイランはヘラートほかアフガニスタン諸地域に対する領有権主張を放棄)
- 英露協商
[編集] 現況のイラン・イスラーム共和国外交政策
イランは地域諸国およびイスラーム世界諸国との関係を優先させており、たとえばイスラム諸国会議機構や非同盟諸国首脳会議への強い関与がそれである。また1990年代後半以降、湾岸協力会議諸国、特にサウジアラビアとの関係は改善されている。一方でペルシア湾の3島に関するアラブ首長国連邦との領土問題は続いており、湾岸諸国との関係改善において障害となっている。
イランはイラクにおいて統治評議会を支持したが、国家主権のイラクへの迅速かつ完全な変換を強く主張した。またアフガニスタンについては、その安定・復興を望んでいる。イランには250万におよぶアフガン難民の存在と、アフガニスタンからの麻薬の流入がその背景にある。カフカズおよび中央アジアについても地域の安定化および協調政策をとっている。これはイランが地域における政治的経済的中軸として存立するための投資である。
[編集] 現況の国際関係における諸問題
- イランおよびイラクは1990年に外交関係を回復した。しかし8年にわたる戦争で問題となった、国境問題、戦争捕虜問題、アルヴァンド川の航行権問題については継続中である。
- イラン政府はペルシア湾の大小トンブ島を支配・領有しているが、アラブ首長国連邦が領有権を主張している。
- アブー・ムーサー島はアラブ首長国連邦との共同統治下にあるが、1992年以来イランの単独統治となり、アラブ首長国連邦側の立ち入りも拒否している。アラブ首長国連邦は共同管理下におくべきとする。
- カスピ海におけるアゼルバイジャンおよびトルクメニスタンとの境界問題。交渉は非常に緩慢であったが、数年以内に交渉で解決の見込み。ロシア、カザフスタン、アゼルバイジャン相互間では2003年に解決済みである。ロシア・カザフスタンについてはイランは直接接していない境界線問題であるものの、イランはこの合意を認めていない。
[編集] 麻薬との戦い
麻薬取り締まりにあたっての相当の努力にもかかわらず、イランは南西アジア、主に隣国アフガニスタン産ヘロインのヨーロッパへの重要な中継地という状態が続いている。また国内での麻薬消費も依然として問題で、イランにおける新聞報道によれば麻薬常用者が少なくとも120万にのぼるという。イランは反麻薬キャンペーンの実施を国外で積極的に紹介しているものの、成功しているとはいえない状況で、大部分の国がイランの立場を政治的には支持するものの、必要とされる喫緊の設備や人員の訓練などの援助を拒否している。
[編集] アメリカ合衆国および欧州連合諸国との関係
詳細はアメリカ合衆国とイランの関係を参照
アメリカ合衆国との関係は、イラン・イスラーム革命で崩壊した。イランはアメリカ合衆国およびイスラエルとの国交を持たず、また中東和平プロセスについても懐疑的である。欧州連合および加盟諸国との関係は、ゆっくりだが確実に重要性を増しており、大統領モハンマド・ハータミーによる2000年7月のイタリア・フランス・ドイツ訪問、2002年3月のオーストリア・ギリシア訪問などや、欧州諸国首脳のイラン訪問、また活発な閣僚級相互訪問はこれを裏付けるものである。2002年、欧州連合はイランとの貿易協力協定(TCA)の交渉を開始した。並行してEUはイランに対し、人権問題、テロリズムへの対応、中東和平プロセスおよび大量破壊兵器拡散防止に関する問題において、具体的成果を示さねばならないとの政治対話を行っている。2003年10月、英仏独三ヵ国外相はテヘランを共同訪問。イランによる核拡散防止条約追加条項の批准、IAEAとの完全な協力体制の確立、自発的なウラン濃縮活動の停止という成果を見ている。
[編集] イラン・イスラーム共和国外務省
外務大臣は大統領によって選任される。現在の外務大臣はマヌーチェフル・モッタキー、報道官はハミード・レザー・アッセフィーがつとめる。
[編集] 註
[編集] 関連項目
- イランと中国の関係
- イランとイスラエルの関係
- イランとバングラデシュの関係
- イランとイタリアの関係
- イギリスとイランの関係
- アメリカ合衆国とイランの関係
- イランとロシアの関係
- イランとインドの関係
- イランとアフガニスタンの関係
- イランとパキスタンの関係
- イランとパレスチナの関係
- イランとドイツの関係
- イランとトルコの関係
- イランとアラブ諸国の関係
- イランとデンマークの関係
- イランとフランスの関係
- イランの外交使節
- イラン・コントラ事件
- イラン・イラク戦争