アルフレッド・ラッセル・ウォレス
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生年 | 1823年1月8日 ウェールズ、モンマスシャー州ウスク |
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没年 | 1913年11月7日 イングランド、ブロードストーン |
居住国 | イングランド |
国籍 | 英国 |
研究分野 | 生物学、生物地理学 |
主な業績 | 自然選択説、ウォレス線、社会改革 |
主な受賞歴 | en:Royal Medal (1866) メリット勲章 (1908) コプリ・メダル (1908) |
アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace, 1823年1月8日 - 1913年11月7日)は、イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者。アマゾンとマレー諸島を広範囲に実地探査した。分布境界線(ウォレス線)の発見者であり、生物地理学の父と呼ばれる。チャールズ・ダーウィンとは独立して自然選択を発見し、進化論の発展を支えた。またイギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。
目次 |
[編集] 生涯
1823年にウェールズのモンマスシャー州ウスクに生まれる。父は法務官で社会的地位は低くなかったが、生活はまずしかった。ウォレスは生物学の専門教育を受けたことのない在野の研究者であった。小学校を卒業した後、兄の土地測量の手伝いなどいくつかの仕事を転々としたあと、1844年にレスターの小学校の教員となった。レスターでは生涯の友人となる、アマチュアの昆虫収集活動をしていたヘンリー・ベイツと知り合う。ウォレスはこのときの出会いを後年回想し「よく覚えていないが図書館で誰かに紹介されたと思う」と述べている。仕事のかたわら植物などの採集・蒐集を行っていたウォレスはベイツと意気投合し、当時話題になっていたダーウィンの『ビーグル号航海記』をはじめフンボルト、ライエル、スペンサーらの著作を、またマルサスの『人口論』などを読み、意見を交わしあった。1845年に死んだ兄の仕事を継ぎ、土地測量士としてレスターを離れると手紙でベイツとの交流が続いた。
1848年、ウォレスはベイツを誘い、アマゾンの熱帯雨林で標本を収集するためにブラジルへ旅立った。ブラジルではベレン近郊で数ヶ月間ともに収集活動したあと別れて標本採集を続けた。1850年に一度合流したあと、ウォレスは1852年に帰国した。しかしこのとき、彼の船が火災に遭い、コレクションの大部分が失われた。この事故でウォレスは10日間に渡って漂流しようやく救助されたが、手ぶらで帰国することになった[1]。帰国後『アマゾン河探検記』を出版するが、参考になる資料をほとんど失っていたためダーウィンにあまりに不十分と酷評され、売れ行きも悪かった。
この航海には保険が掛けられていたため、保険金を元に1854年から1862年まで東南アジアのマレー諸島一帯への採集旅行に出た。
この旅でウォレスは、昆虫から鳥類、オランウータンまで多様な動物標本を採集して経済的にも成功を収める一方、生物種の地理的分布と進化についての証拠を集め、6本の論文をロンドンの学会誌に投稿した。またこの採集旅行の間に、スンダ列島のバリ島とロンボク島の間に分布する動物種に明かな差違があることに着目し、生物地理学上の分布境界線の存在を発見した。これは後にトマス・ヘンリー・ハクスリーによってウォレス線と名付けられた。
[編集] 自然選択説
ウォレスはこの旅にライエルの『地質学原理』とダーウィンの『ビーグル号航海記』を携ていた。1855年には博物学会へ、生物の進化に関する論文を投稿した。しかしこれは生物の地理的分布は種や変種に関係があるのではないかというもので、充分に洗練されておらず、注目を集めなかった。1858年にはこの考えをダーウィンに送っている。ダーウィンは「私も同じ事を20年間考え続けているが、あと2年は公表できそうにない」と答えた。尊敬するダーウィンからの返事に感激したウォレスはアマゾンにいたベイツにこのことを知らせている。
その後まもなく、病臥(マラリアと言われる)に伏しているときに、マルサスの『人口論』が野生生物にも適用できるのではないかと思いつき、ダーウィンに再び手紙を送った。これはダーウィンの自然選択説とほとんど同じ物であったため二人の研究を並べるという形で発表を行った。ダーウィン自身も恐れていた、「手柄の横取り」とも取れるこの行為について周囲から意見を求められたウォレスは、公式の場ではただダーウィンへの敬意と謙遜の態度を示し、個人的にも満足の意を表したためダーウィンを安堵させた。当時の学会においては、理論や分類を行う研究者に比べて採集家の評価が低かったため、研究者として自分の研究を高く評価し、学会や政府の重鎮との仲介も行ったダーウィンに感謝を示したと言われ、ウォレスはベイツへの手紙で『種の起源』について「完璧な仕事、様々な資料、すばらしい考察は自分など及びもつかず、この理論を世に知らしめる役が自分でなくダーウィン氏であって本当に良かった」と述べている。
[編集] 帰国後の活動
その後は種痘反対運動や土地国有化運動を盛んに推進した。
すでに提唱されていた鳥類の生物地理区を陸上動物にまで広げ、世界に6つの生物地理区を設定した。
またウォレスは当時考えられていたような白人と非白人の間の脳や知性の差はないと考えていた。しかし一方で、白人の文明は洗練されており、非白人の文明よりも優れていると信じていた。自然選択説にこれを当てはめれば、遅れた文化しか持たない非白人が白人と同じように脳を発達させたのはつじつまが合わない。そこでウォレスは人間を進化の例外と考え、人間の魂や精神は進化の産物ではないと結論した。そしてそれを確かめるために晩年はスピリチュアリズムに傾倒した。自身で降霊会を主催し、招待したトマス・ハクスリーに激しく拒絶されたこともあった。しかし進化論を捨てたわけではなく、むしろ晩年まで進化論に対して繰り返される攻撃に反論し、ハクスリーらとともに、ダーウィンの没後30年にわたって進化論の擁護者であり続けた。
1913年に90歳で没すると、ニューヨークタイムズは「ダーウィン、ハクスリー、スペンサー、ライエルらと並ぶ学者の逝去」と報じ、友人たちはウエストミンスター寺院に埋葬されるべきだと主張したが、妻が本人の意向をくみ、ドーセット州のブロードストーン(Broadstone)にあるブロードストーン墓地に埋葬された。ウエストミンスター寺院のダーウィンの墓の隣にはウォレスの墓の代わりに彼を表すメダルが置かれている。
[編集] ダーウィン主義
ダーウィン主義(ダーウィニズム)と言う造語を作ったのもウォレスである。ウォレスは自然選択説の万能論者であり、ダーウィンが示した性選択には強く反対した。またダーウィンはウォレスが心霊主義に傾倒するのを苦々しく思い、何度か非難した。しかしそれでもダーウィンとの友好的な関係は変わらなかった。ウォレスは死後、その名声が急速に忘れられたが、その理由の一つにウォレスが「自分は第一のダーウィン主義者だ」とダーウィンの名を喧伝しすぎたためだと言われる。またウォレスは当時の知識人が当然身につけているべきと考えられていた社交性に欠け、突飛な言動でも知られていたことがもう一つの理由と言われる。
[編集] 受賞歴
現在では進化学者に送られる最高の賞と見なされるダーウィン・メダルの最初の受賞者でもある(1890年)。1868年には王立協会からロイヤルメダル、1892年には王立地理学協会からファウンダーズメダル、1908年にはコプリ・メダルを受賞した。同年、英王室からメリット勲章を受けた。1893年に王立協会会員に選出された。またロンドン昆虫学協会の会長、英国学術協会の人類学部長・生物学部長などを歴任した。1898年にロンドンで行われた国際心霊学会議の議長を務めた。月と火星に彼の名を冠したクレーターがある。2005年には彼を記念した研究施設がサラワクに開設された。
[編集] 著書
- 『アマゾン河探検記』 青土社 ISBN 4791756150
- 『心霊と進化と―奇跡と近代スピリチュアリズム』潮文社、 ISBN 4806311367
- 『マレー諸島―オランウータンと極楽鳥の土地』新妻昭夫訳(文庫版:ちくま学芸文庫〈上〉ISBN 4480080910 、〈下〉ISBN 4480080929)
- 『熱帯の自然』谷田専治・新妻昭夫訳(文庫版:ちくま学芸文庫 ISBN 4480084207)
- 『アマゾン河・ネグロ河紀行』田尻鉄也訳 お茶の水書房 ISBN 4275018699
[編集] 関連項目
- ウォレス線
- ウォーレシア - オーストラリアと東南アジアに挟まれた海域、諸島をウォーレシアと呼ぶことがある。
[編集] 脚注
- ^ 『アマゾン河探検記』最終章に記述があり、それによると残ったのはボートまで逃げ飛んできたオウム一匹であった。
[編集] 参考文献
- 新妻昭夫『種の起原をもとめて―ウォーレスの「マレー諸島」探検』朝日新聞社、ISBN 4022570679(文庫版:ちくま学芸文庫 ISBN 4480086439)
- デボラ・ブラム 『幽霊を捕まえようとした科学者たち』 鈴木恵訳 文芸春秋 ISBN 4163691308
- 山下友美『ディスカバー 方舟の獣たち』 - 漫画