S21 (トゥール・スレン)
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S21は、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジア(民主カンボジア)において設けられていた政治犯収容所の暗号名である。
稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称は無い。現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれており、国立のトゥール・スレン虐殺博物館となっている。
2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8名(現在身元が分かっているのは7名)のみであった(これまでは7人とされていたが、2007年、別の刑務所に移送されたため生き残った女性一名が名乗り出た)。
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[編集] 歴史
詳細はクメール・ルージュを参照
プノンペンの中心からやや南方に位置するこの場所には、トゥール・スヴァイ・プレイというリセがあった。革命に学問は不要と言う方針を打ち出したクメール・ルージュは、1976年4月頃、無人になったプノンペンの中心に位置するこの学校を、反革命分子を尋問しその係累を暴くための施設に転用した。
それ以前にもプノンペン市内にはいくつかの政治犯収容所があった模様で、そこでは厳しい尋問が行われていたようだが、生きては出られぬ収容所ではなかったと言う。収容所がS21に集約されると共に、一度収容されたものは生きて出ることはない場へと変貌したが、そのどちらが原因でどちらが結果かは今となっては不明である。また、1977年の毛沢東の死によってクメール・ルージュ党中央は中国からの援助が止まるのではないかと危機感を募らせ、それと共に反革命分子の詮索も苛烈の度を増していった。
革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いないという、ポル・ポトを初めとする党中央の被害妄想に、現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる拘禁反応によって看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。彼らの遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になったのと、処刑時の叫び声が響く事から、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15kmのチュンエク村に移された(のちにそこは「キリング・フィールド」と呼ばれることになる)。同じ理由からか尋問の場所もリセの正門前の民家に広げられた。あるいは手狭になったためかも知れない。
S21の指揮官であったドッチは、自分は命令に従っただけだと述べた。彼はかつて高校の数学教師で、しかも中国系である事から粛清の標的になりやすい立場にいた。そのため党中央の威光に縮み上がり、なおかつ計算高くその意向(反革命分子をあぶり出すためにあらゆる手段を使う事)に従おうとした事は想像に難くない。所長でさえこうした姿勢であったため、あまつさえ看守は忠誠を示すために残虐行為を当然の如くに行った。看守には10代の少年少女がなる事が多かったが、S21の秘密を守るための粛清の危険に常に晒されていた。実際、多くの看守が後に収容され処刑されている。
拷問が激化するのと、S21が生きては出られぬ収容所となったのは軌を一にしているが、「一度収容された囚人は有罪と決まっている→拷問し処刑する→S21の拷問と虐殺の実態が外部に漏れぬようにするため、ますます囚人を何が何でも有罪にして処刑しなければならない→さらに拷問が激化する」と言う悪循環に陥っていた点では、ナチスドイツの強制収容所などと通底するものがある。
一方、ポル・ポト、イエン・サリ、タ・モク、キュー・サムファンら党中央は後年「拷問しろなどと命令した覚えはない」「トゥール・スレンなど私は知らない(S21と呼んでいたから)」などと強弁した。
S21では、囚人の写真と処刑後の写真、囚人や看守が書かされる「自分史」(自己批判文)、詳細な自白調書など膨大な記録が作られたが、クメール・ルージュ自身がそれを使って本当に反革命分子を捕まえているのかを検証した形跡は無い。むしろこれらは、これだけの反革命分子を捕まえ、そして反クメール・ルージュ的組織の情報をこれだけ引き出したという実績作りのためだけに作られたようである。
しかし1978年の終わりには、拷問によって得られた自白の信憑性を疑う空気がようやく収容所幹部にも漂ってきたのか、拷問を差し控えるようになる。だがS21の恐ろしさは十二分にカンボジア国民に植え付けられており、収容者は次から次へと「米帝との関わり」を「自白」(創作)し、処刑されていった。
囚人は処刑される前に反革命分子の仲間を出来るだけ多く列挙するよう強要されたが、こうすることでS21は処刑すべき「反革命分子」に事欠くことが無かった。むしろその数は指数関数的に増えて行き、やがてはクメール・ルージュ自体の幹部も告発を受けて処刑されるようになる。ソン・センのように党中央のメンバーでさえ、逮捕には至らないが疑惑を向けられることはあったという。中央政府から地方組織や各事業所に至るまで、幹部の多くが処刑された事によってクメール・ルージュは弱体化していく。
その後間もなくベトナム軍によってS21の存在は白日の下に晒される事になる。1979年1月7日にベトナム軍はプノンペンを制圧したが、クメール・ルージュは全員撤退・逃亡した後だった。翌日、ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この施設を発見した。A棟1階の尋問室でクメール・ルージュが撤退間際に殺害した14名の遺体があり、収容所全体では50名程度の遺体があった。また膨大な収容・処刑記録の文書があった。
クメール・ルージュは中国以外の国に対しては一切秘密主義を貫いていたため、そうした政治犯収容所の存在は国外には知られていなかった。ベトナムがカンボジアに傀儡のヘン・サムリン政権を擁立するにあたり、この収容所跡はベトナム側の政治宣伝(「ポル・ポトからカンボジアを救ったのはベトナムである」)として利用される事になり、わずか数日で外国のプレスに公開された。その年の内にはクメール・ルージュの残虐行為を展示する博物館が急遽設置された。
[編集] 現在
発見時のままに保存されている拷問室、1,000名ほどの収容者(一部は少年・少女看守)の写真、生還した画家が描いた拷問の様子など、現在のトゥール・スレン博物館の展示内容は開館時と余り変わっていない。但し、悪評を招いた「骸骨で作ったカンボジア地図」は2004年に撤去された。クメール・ルージュが遺した膨大な文書をイェール大学やコーネル大学が分析しているにも関わらず、その結果は展示内容に反映されないままである。
[編集] 尋問中の保安規則
- 質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
- 何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
- 革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
- 質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
- 自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
- 電流を受けている間は一切叫ばないこと。
- 何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
- 自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
- これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
- これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。
[編集] 参考文献
- デイヴィッド・チャンドラー著、山田寛訳 『ポル・ポト 死の監獄S-21』 ISBN 4-8269-9033-2
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- S21: The Khmer Rouge Killing Machine - 犠牲者の遺族であるリチー・パンが制作したドキュメンタリー映画。2003年カンヌ映画祭フランソワ・シャレー賞受賞
- Prisoners at S-21 Prison - 囚人の写真の一部
- Yale > Cambodian Genocide Project > The CGP, 1994-2004 - イェール大学カンボジア大虐殺プロジェクト
- genocide - 写真などの資料集