5月3日憲法
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「1791年5月3日憲法」(ポーランド語:Konstytucja Trzeciego Maja)は、近代的な成文国民憲法としてヨーロッパで最初のものであり、世界でも米国憲法に次ぐ2番目のものとして知られている。[1][2][3] この憲法はポーランド・リトアニア連合王国(以下ではポーランドと記載)の法律(ポーランド語:Ustawa rządowa)で、5月3日に議会(セイム)で採択された。
5月3日憲法は、ポーランドの独特の伝統である「貴族共和制」における政治的欠点を取り除くことを目的に制定された。この憲法では、市民と貴族(シュラフタ)とを政治的に平等と定めた。また、農民を政府の庇護下に位置づけ[4]、農奴制という悪習の軽減を図った。さらに、害が多い議会制度を廃止した。例えば任意拒否権も廃止されたが、かつてはこの任意拒否権によって、利害関係者や外国から買収された議員が議会で立法された法律を簡単に取り消してしまっていた。5月3日憲法は、復古的な有力者達が暗躍する当時の無政府状態を、比較的平等主義かつ民主主義な立憲君主制で取って代えようとしていた。[5]憲法の文面はリトアニア語にも翻訳された。[6]
5月3日憲法の採択は、ポーランドの周辺国の警戒心を惹きつけ、戦争を招くことになった。ポーランドは、1792年にエカチェリーナ2世のロシア帝国から攻撃を受け、同盟を結んでいたフリードリヒ・ヴィルヘルム2世のプロイセンに裏切られたこともあり、敗戦した。この戦争でロシア帝国は、改革で既存権力を失うことを恐れるポーランドの大貴族が結成したタルゴウィツァ連盟と結託した。敗戦の結果、2回目のポーランド分割が行われ、領土の一部をロシア帝国とプロイセンに奪われることになった。1795年の3回目のポーランド分割によってポーランドは消滅したが、復活するまでの123年間、5月3日憲法は民主主義によるポーランドの主権回復闘争を導くかがり火となった。イグナツィ・ポトツキとフーゴ・コウォンタイ(Hugo Kołłątaj)の共著の言葉によると、この憲法は「亡くなった母国の最後の遺言」だった。
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[編集] 歴史
[編集] 背景
1791年に5月3日憲法が策定された理由は、ポーランド・リトアニア連合王国(以下ポーランド)の陥った危機的状況を打開するためである。その2世紀足らず前まで、ポーランドはヨーロッパで最大の強国だった。しかしそれ以前(16世紀)にすでに、当時の王ジグムント3世に仕えたイエズス会宮廷牧師のピョトル・スカルガが、ポーランド市民の集団または個人としての欠点を指摘していたのである。また同じ頃、アンジェイ・フリチュ・モドジェフスキ(Andrzej Frycz Modrzewski)、ヴァヴジニェツ・グジマワ・ゴシリツキ(Wawrzyniec Grzymała Goślicki)、ヤン・ザモイスキ(Jan Zamoyski)ら作家や哲学者により、改革を主張する「法の遂行」運動が起こっていた。
17世紀初頭までに、ポーランドの支配のほぼ全てを大貴族達(マグナート)が掌握した。言葉を変えると、大貴族たちは、自らの特権を危うくする改革が決して起きないような支配体制を作り上げた。彼らは、自分達の晩餐会やあらゆる娯楽に気前良く浪費する一方で国民を軽視し、小作農たちは劣悪な条件に苦しむことになった。また、地方自治の法律の改悪によって、一般市民の暮らし向きは、他の西欧諸国の豊かさと比較にならないほど悪化した。
多くの歴史家は、この時代のポーランドが没落した最大の原因は任意拒否権制度にあると指摘している。任意拒否権は1652年に創設された制度で、議会(セイム)の全議員に、議会を通過したあらゆる法律を取り消す権利を認めていた。大貴族や外国から買収された議員や、前世紀の「黄金時代」が続いていると勘違いしている愚かな議員たちが任意拒否権を乱用し、政府は混乱してマヒ状態に陥ってしまった。後に任意拒否権の害悪を取り除いたのが、任意拒否権の適用外とされる連合議会(confederated sejm)の創設である。5月3日憲法を採択した1788年から1792年の「4年議会」(偉大な議会)も連合議会であり、だからこそ、このように急進的な法律が通過できたのである。
さて、ポーランド王国の最後の王スタニスワフ2世の治世(1764年–1795年)には、ポーランドにも啓蒙時代が訪れていた。王は慎重に改革を進めた。財務省と国防省が創設された。国家としての関税が新に決められた。憲法の改革も徹底的に議論された。ところが、周辺諸国はこの改革を危険視していた。それというのも、周辺諸国にとって国境を接するポーランドは重要な国であり、ポーランドが強化されて民主化までされることを、脅威と感じていたからである。
ロシアの女帝エカチェリーナ2世とプロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の干渉によって、議会保守派とスタニスワフ2世との間に、宗教少数派の権利を巡る対立が起こった。エカチェリーナとヴィルヘルムはポーランドの貴族(シュラフタ)の「自由」を守るために援護すると宣言し、1767年10月にはロシア軍をポーランドの首都ワルシャワの外側に結集させた。武力に勝るロシア軍を目の前にしては、スタニスワフ2世とその支持者達もロシアの要求を受け入れて、エカチェリーナが「ポーランド貴族を守るため」に掲げる「永久・不変の5原則」を認めざるを得なかった。この原則とは、選挙王政、任意拒否権、王への臣従の拒否権と反乱する権利、貴族による官職と領土の排他的所有権、地主による小作人の生死の決定権、である。
ポーランド国内には、スタニスワフ2世の決定に反対する者もいた。1768年2月29日、カジミェシュ・プワスキ(Kazimierz Pułaski)等数名の大貴族はロシアの干渉に抵抗し、スタニスワフ2世を「ロシアトエカチェリーナの犬」と断じて、バール(現ウクライナの小都市)においてバール同盟を結成して反乱を起こした。反乱の目的はスタニスワフ2世の追放だったが、1772年まで続いた末にロシア軍に鎮圧された。
バール同盟の敗北と共に、ポーランドを巡るドラマの新しい幕が上がった。1772年8月5日、ロシアのサンクトペテルブルクにおいて、ロシア、プロイセンおよびオーストリア帝国という周辺3大国が集まり、第1回目のポーランド分割に署名した。これにより、ポーランド・リトアニア連合王国は約8万km²を奪取され、約19万km²が残されることになった。この分割を正当化する根拠は、ポーランドが無秩序状態にあり、近隣諸国が秩序回復を支援しているにも関らず政府がそれに協力しないことだとされた。3大国はポーランド議会にこの分割案の採択を求め、もし採択しなければさらに分割を増やすと迫った。スタニスワフ2世は脅迫に屈し、1773年4月19日に議会を召集した。王の意図に気付いた多くの議員は欠席し、出席した議員は102名だけであり、中でもタデウシュ・レイタン議員などは激しく抗議したが、それでも第1回ポーランド分割は可決された。この後ポーランド分割は繰り返され、3回目のポーランドの消滅によって終わる。それはともかく、第1回目の分割が行われたこの時点でも、ポーランドは改革を成功させない限りいずれ消滅に向かうことがはっきりした。
スタニスワフ2世の支持により、新しい改革の波が起こった。その中でも重要な出来事は、世界最初の教育担当省である「国家教育委員会」(en:Komisja Edukacji Narodowej)の設立である。都市にも地方にも新しい学校が築かれ、共通の教科書が出版され、教師には専門教育が施され、さらに、貧しい学生には奨学金が支給された。軍事面も近代化され、常備軍が結成された。過去には貴族達の妨害により否決されていた経済・商業面の改革も進み、産業の発展が推進された。小作農にもいくらかの権利が与えられるようになった。新しくできた警察省は、贈収賄の問題に取り組んだ。道路整備から刑務所に至るまで、あらゆるものが改革された。行政組織として、5つの省からなる常任評議会(Rada Nieustająca)が整備された。
第1回目のポーランド分割以前から、議員たちは、フランスの政治思想家であるガブリエル・ボノ・ド・マブリとジャン=ジャック・ルソーから、新しいポーランドのための憲法のようなものを制定することを勧められていた。マブリは推奨する論文を1770年から1771年に提示し、ルソーは「ポーランド政府に関する考察」を1772年に書き上げた。[7]
1776年、議会はアンジェイ・ザモイスキ(en:Andrzej Zamoyski)に、新しい法案(ザモイスキ法案)の起草を委託した。1780年には、ザモイスキの監督によって新しい法案(Zbiór praw sądowych)が完成した。この法案では、王権は強化され、全ての官公吏は議会の責任下に置かれ、聖職者とその財産は国家の管理下に置かれ、貴族階級でも土地を所有しないものには法的な特恵を無くすこととしていた。ザモイスキの革新的な法案には後の5月3日憲法の基本的な部分が含まれていたが、このときは議会によって否決された。
[編集] 起草から採択まで
ちょうどこの頃の世界情勢は、ポーランドの改革推進派に味方した。ポーランドの周辺国は、オスマン帝国など他国との戦争と国内の諸問題の対処に精一杯になり、ポーランドへの干渉が弱まった。1788年10月6日に開会し1792年まで続いた4年議会(偉大な議会)と呼ばれる議会は、任意拒否権が適用されない連合議会であり、この絶好の機会をとらえて改革を進めた。プロイセンとの同盟によってロシアの干渉が減った時期に[8]、スタニスワフ2世は改革を志す愛国党の指導者達を身近に引き入れ、1790年に議会は新議員を加えて約2倍となった。スタニスワフ2世は新憲法作成を手がけ、スタニスワフ・マラコフスキ、イグナツィ・ポトツキ、フーゴ・コウォンタイ、スタニスワフ・スタシツ、および、王のイタリア人秘書シピオーネ・ピアットーリ等によって草案が起草された。
新憲法の政府決議の採択は、ほとんどクーデターといえる状況だった。政府決議のための討議は、議会のモスクワ党(ヘットマンとも呼ばれる)からの暴力による反対の恐れもある中、当初予定の5月5日を2日繰り上げ、多くの反対派議員がまだ復活祭で休んでいる5月3日に行われた。改革推進派の議員たちは早い時間に人目につかないよう議場である王宮に入った。モスクワ党による妨害を防ぐために王宮の周りに近衛兵が配備される中、新憲法に関する討議が行われ、採択された。そして、外に集まった熱狂的な群衆に対し、新憲法を政府決議した宣言が高らかに読み上げられた。
[編集] 転落
1791年の5月3日憲法が効力を持ったのはわずか1年間で、タルゴィツァ連盟と結託したロシアと争った護憲戦争が発生し、その結果、ロシア軍によって破棄された。
ロシアは、ポーランドを実質的にロシアの保護国とみなしていた。露土戦争および第一次ロシア・スウェーデン戦争が終わったため、女帝エカチェリーナはポーランドに眼を向け、ロシアの影響力を弱める5月3日憲法が成立したことに激しく怒った。[9] ポーランド周辺国から見ると、ポーランドの革新派達がフランスの国民議会と連絡を取っていたことが、革命の陰謀の証拠であり、絶対君主制への脅威とみなされた。プロイセンの政治家エヴァルド・フォン・ヘルツブルグは、ヨーロッパの保守層が感じていた脅威を「ポーランド人は憲法法案に賛成票を投じることで、プロイセンの君主制にとどめの一撃(coup de grâce)を加えた」と表現した。[1]
初めから憲法に反対していた多くの大貴族(フェリクス・ポトスキやクサヴェリ・ブラニスキなど)は、エカチェリーナの介入を望み、新憲法によって奪われた特権を回復してもらうように求めた。エカチェリーナに裏からの支援を受け、大貴族たちはタルゴウィツァ連盟を結成し、新憲法を「民主主義という伝染病を広める」と非難する声明文を発表した。彼らは、ロシア帝国の軍隊を招き入れ、「ポーランド王国の同盟国たるロシア帝国の崇高なる女帝エカチェリーナの意向は、今までもこれからも、ポーランド王国とポーランド人の自由を復興し、市民に安全と幸福をもたらすことの他にない」と断言した。1792年5月18日、9万7千人の経験を積んだロシア兵と、2万人以上の同盟軍が、国境を越えてポーランドに侵入した。
ポーランド王スタニスワフ2世と革新派達は、3万7千人の軍しか編成できず、しかもその多くは寄せ集めだった。王の甥であるユーゼフ・ポニャトフスキとタデウシュ・コシチュシュコの指揮によって何度かロシア軍を破ったものの、王自身がポーランドの敗北を決定付けた。1792年7月にワルシャワがロシア軍に包囲されると、スタニスワフ2世は多勢のロシア軍には勝てないと絶望し、完敗して革新派全員が虐殺されるという憂き目に会わないためには、降服するしかない、と考えるようになった。
1792年7月24日、スタニスワフ2世は革新運動を見捨て、タルゴウィツァ連盟に加わった。ポーランド軍は崩壊し、革新派の指導者の多くは戦いの意義を失って亡命した。
しかし結果的には、王の判断はポーランドを救えなかった。タルゴウィツァ連盟も予想しなかったことだが、戦いの後に第2回目のポーランド分割が行われた。ロシアが25万km²を獲得し、プロイセンが5万8千km²を獲得した。ポーランドに残された国土は約21万2千km²にすぎず、傀儡の王と駐留ロシア軍が存在する小さな緩衝国になってしまった。
それから1年半あまり、ポーランドの愛国者達は雌伏しながら反乱の好機を待った。1794年3月24日、クラクフにおいて、タデウシュ・コシチュシュコがコシチュシュコ蜂起として知られる反乱を起こした。5月7日、彼は農奴解放と蜂起に参加した全ての人に土地所有を認める「ポーランド宣言」(Uniwersał Połaniecki)を発した。 蜂起の当初は、ラツワヴィツェの戦いに勝利し(4月4日)、ワルシャワ攻略(4月18日)、ビリニュス攻略(4月22日)などいくつかの勝利を挙げた。しかしその後、ロシア、オーストリア、プロイセンの連合軍が軍事介入し、圧倒的多数の軍事力によって蜂起を鎮圧した。コシチュシュコ蜂起の失敗は、1795年の第3回目のポーランド分割につながった。
[編集] 後世への影響
5月3日憲法は、世界で2例目の近代的な成文国民憲法であり、政治学者から、当時としては非常に進歩的な内容だったと評価されている。この憲法は短命に終わったが、その記憶は後のポーランド人に何世代も残って先人たちの努力を伝え続け、再び独立して公正な社会を作ろうとする努力を続ける原動力となった。ポーランドでは、この憲法は、ポーランドの歴史と文化において最も優れたものとみなされている。憲法が採択された5月3日は、ポーランド共和国が1918年に復活して以来、ポーランドの最も重要な記念日として国民の祝日になっている。
5月3日憲法が登場するまで、現在のポーランド語で「憲法」を意味する「konstytucja」という単語は、議会で採択される全ての法律に対して使われていた。5月3日憲法が採択された後、「konstytucja」は、現在のように統治の原則を決める法律にだけ使われるようになった。
政治制度の歴史において、成文国民憲法の登場は民主主義進展の記念碑となる画期的な出来事である。世界で最初に成立した成文国民憲法はアメリカ合衆国憲法で、1787年に起草され、1789年から実施された。1791年に採択された5月3日憲法は世界で2例目である。ポーランドとアメリカは距離は離れているが、政治制度を決めた取り組み方には面白い類似性がある[1]。絶対君主制の大国と違い、この両国はかなり民主的だった。ポーランドの歴代の王は選挙で選ばれており、ポーランド議会は立法に関して強い権利を持っていた。ポーランドの5月3日憲法においては、人口の10%を占める都市民と貴族(シェラフタ)とに特権が与えられていた。この比率は、同時期のアメリカにおいて参政権が与えられた男性の資産家の人口比と似通っていた。
ポーランドの自由主義者が敗北した事件は、民主主義の潮流から見ると一時の停滞にすぎなかった。ポーランド国家の消滅によって民主主義の広まりに遅れは出たが、すでにそのころ北アメリカでは民主主義が確立していた。まもなく、民主化運動はヨーロッパの絶対君主制を根元から揺るがし始めた。5月3日憲法の要約は、フランス語、ドイツ語、および英語に翻訳されて各地に紹介された。フランス革命の革命家達は、5月3日憲法の成立とスタニスワフ2世のために祝杯をあげた。フランスの革命家にとって、ポーランドの改革が革新的だったのは喜ばしいことだったが、それ以上に、ポーランドの護憲戦争とコシチュシュコ蜂起のためにロシアとプロイセンが兵力を割かれ、フランスに加える圧力が弱まるという効果が歓迎された。社会思想家トマス・ペインは、5月3日憲法を大きな躍進と評価している。また、エドマンド・バークは、5月3日憲法を「あらゆる時代の国民が受けられる最も役立つ素晴らしいものである…これにより、スタニスワフ2世は歴史上の偉大な王かつ偉大な政治家に仲間入りした」と記述している。結果的に、保守派層は、ヨーロッパを民主主義が席巻することを1世紀遅らせただけだった。第1次世界大戦の後、ヨーロッパの君主国のほとんどは民主主義国家に生まれ変わり、その生まれ変わった国家の中に新しいポーランド共和国もあった。
[編集] 特徴
スタニスワフ2世は、当時の記録によると、5月3日憲法を「原則としてイギリスとアメリカ合衆国の憲法を下敷きにし、両者の欠点は直して、我が国の独自の状況には可能な限り適応させた」と説明した。実際、ポーランドとアメリカの国民憲法には同じような啓蒙思想の影響が見られ、例えばモンテスキューの唱えた権力分立や両院議会制度を取り入れている。
憲法は11条から成っている。その中には、国民主権の原則(貴族と都市市民に適用される)、権力分立の原則が含まれている。権力分立は、立法(両院制セイム)、行政(国王の評議会)、司法の三権を分立させる制度であるが、第5条に「国家の清廉、市民の権利、社会の秩序は、つねに均等でなければならない」と記載されている。
この憲法は都市の民主化を進めた。土地を所有しない貴族の法的・政治的特権に制約を設け、一方では、都市の市民には身の安全と土地の所有権、軍士官や政府高官になる資格、貴族階級への参加などを認めた。これらは、5月3日憲法に先立って4月18日に成立した国王都市法令(憲法第3条に、この法令が憲法を補完すると定められている)に規定されている。憲法はまた、ポーランドの農民を「国法と政府の元に保護される」と明記し、農奴制を廃止し、農民という最大の階層に参政権を与える行動の第一歩を踏み出した。
5月3日憲法では、通常議会は1年おきに召集され、特別議会は国家緊急時にいつでも召集される。下院(代議院、Izba Poselska)は204名の代議員と24名の国王都市の特命全権大使からなる。上院(元老院、Izba Senacka)は132名の元老院議員(ヴォイェヴォダ(地方長官)、castellan、大臣、司教)から成る。
行政的な執行力は法の守護(Straż Praw)と呼ばれる国王の評議会が担っていた。この評議会は国王が統括し、国王に指名される5名の大臣から成っていた。5名の大臣とは、治安大臣、国務大臣、外務大臣、軍務大臣、および財務大臣である。大臣は国王に指名されたが、議会に対して責任を負った。評議会には、大臣以外にカトリック教会の首座大司教(Primate、教育委員会の会長を兼務した)も加わり、投票権はないものの皇太子と議会議長、2名の秘書も参加した。この国王評議会は、2世紀前にen: King Henry's Articlesが設立した評議会(1573年)を受け継ぐものであった。国王が提案した決議にも、担当大臣の連署が必要だった。国王に対する規定には「王1人では何もしない…王1人では国民に何も責任を持たない」と明文化されており、これはイギリス憲法の「王は何も悪事をできない」という原則に相似する(どちらの国でも、国王の提案決議に担当大臣が責任を負う)。
ポーランドは、それまで、ポーランド王国とリトアニア大公国の2国がポーランド・リトアニア連合して連携してきた。これを新憲法では、国家の統一と安全確保を図るために、より緊密な連合国家として一体化した。それまでの政権の形態は一人ひとりの王を選ぶ選挙王制だったが、王選挙のたびに様々な外圧が問題となってきたため、「王家」を選ぶ方法に改められた[10]。5月3日憲法の条文によると、もしスタニスワフ2世が亡くなれば、王位はヴェッティン家(選挙王政において直近2名を輩出)のフリードリヒ・アウグスト1世に世襲されることになる。
また、この憲法では、これまで政府・国家を弱体化させて無秩序状態にさせる要因となってきた、いくつかの制度を廃止した。廃止した制度は、任意拒否権、国家の連合形態、連合議会 (皮肉なことに、憲法を採択した4年議会も連合議会だった)、地方議会(地方選出の国会議員に対する拘束力を持つ)による過剰な国家統治などだった。
この他に、憲法は、カトリックを主宗教と公認した一方で全信仰に対する自由も認めた。軍隊は10万人で編成された。所得税が常設された(貴族には10%、教会には20%)。憲法改正は25年ごとと定められた。
5月3日憲法では、憲法を補完する法令として、1791年4月18日に成立した国王都市法令(憲法第3条)、および1791年3月24日に地方議会で成立した法令(憲法6条)を公認している。さらに歴史家によっては、5月3日の法令を再確認した1791年5月5日の財産整理の布告や、ポーランドとリトアニアの結束を確認した1791年10月22日の「2人の共同宣言」(2人とはポーランドとリトアニアの意味)も、5月3日憲法を補完する法令に数えている。憲法に実行力を持たせるために、1791年の5月から6月にかけて、国会や国会法廷(5月13日の2法案)、法の守護評議会(6月1日)、治安評議会(6月17日)、市民行政委員(6月24日)などで多くの法律が成立した。
5月3日憲法は、進化中の法律だったといえる。共著者の1人であるコウォンタイは、「全ての所有の権利を保障し、安全を確保し、全ての経済的労働の方法を尊重する、経済分野の憲法」の草案を作成中と述べた。さらに、3番目の基本法として「倫理の憲法」の構想があると述べたが、これはアメリカの「権利章典」やフランスの「人間と市民の権利の宣言」にあたる内容だと思われる。
[編集] 祝日
初めて5月3日を祝日(5月3日憲法記念日— Święto Konstytucji 3 Maja)として制定したのは、1791年5月5日のことである。ポーランド分割でポーランド王国が消滅した後は廃止されたが、再び成立したポーランド共和国によって改めて祝日と制定された(1919年4月)。第二次世界大戦の期間は、ナチス・ドイツとソビエト連邦の占領軍によって、5月3日憲法記念日は再び廃止されていた。1946年に学生による反共産デモが起こると、当時のポーランド人民共和国政府は5月3日憲法記念日を取りやめて代わりに5月1日を「労働記念日」として制定した。1951年1月に法的にも祝日ではなくなった。その後は1989年になるまで、5月3日は反政府・反共産主義運動のための特別な日だった。東欧革命によって共産主義が崩壊した後、5月3日は正式な祝日に復帰した(1990年4月)。
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
- 文中資料:
- ^ a b 社会学者ジョン・マーコフは、近代的な成文国民憲法の制定を民主化を計る試金石のひとつとして、「ヨーロッパ諸国の中でアメリカの手本に最初に倣った国は、1791年のポーランドだった」と記述している。John Markoff, Waves of Democracy, 1996, ISBN 0-8039-9019-7, p.121
- ^ マディスン, ジェームズ (Nov 1987). The Federalist Papers. Penguin Classics.
- ^ Blaustein, Albert (Jan 1993). Constitutions of the World. Fred B. Rothman & Company.
- ^ 第4条(農民階級):「我々は、耕作を行う人々を、法と国家政府の庇護下に受け入れる…(中略)…これらの人々こそ我が国で最大の階層であり、したがって最も力を持っている…」
- ^ George Sanford, Democratic Government in Poland: Constitutional Politics Since 1989, Palgrave, 2002, ISBN 0-333-77475-2, Google print p.11
- ^ Lietuvos TSR istorija. T. 1: Nuo seniausių laikų iki 1917 metų. - 2 leid. Vilnius, 1986, p. 222. 翻訳のオリジナル原稿は Senieji lietuviški raštai (Old Lithuanian texts), Lituanistica, Istorija.net
- ^ Maurice Cranston, The Solitary Self: Jean-Jacques Rousseau in Exile and Adversity, University of Chicago Press, 1997, ISBN 0-226-11865-7, Print p.177
- ^ Piotr Stefan Wandycz, The Price of Freedom: A History of East Central Europe from the Middle Ages to the Present, Routledge (UK), 2001, ISBN 0-415-25491-4, Google Print, p.128
- ^ Paul W. Schroeder, The Transformation of European Politics 1763-1848, Oxford University Press, 1996, ISBN 0-19-820654-2, Google print p.84
- ^ スタニスワフ2世自身、1764年の選挙で、ロシアの女帝エカチェリーナの支援を受けて選出されている。このとき、ロシアから賄賂が流され、ワルシャワに近いヴォラに集会した選挙議会から数キロの地点にはロシア軍が待機していた。
- 一般的資料:
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- Jacek Jędruch, Constitutions, Elections and Legislatures of Poland, 1493-1993, Summit, NJ, EJJ Books, 1998, ISBN 0-7818-0637-2.
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- Norman Davies, God's Playground, 2 vols., ISBN 0-231-05353-3 and ISBN 0-231-05351-7.
- Paweł Jasienica, Rzeczpospolita Obojga Narodów (The Commonwealth of the Two Peoples), ISBN 83-06-01093-0.
- Emanuel Rostworowski, Maj 1791 - maj 1792: rok monarchii konstytucyjnej (May 1791 - May 1792: the Year of Constitutional Monarchy), Warsaw, Zamek Królewski (Royal Castle), 1985.
[編集] 外部リンク
- Polishconstitution.org: site about the Polish May 3rd Constitution that contributed some texts to wikisource
- History of Polish law until 1795
- The Constitution of May 3, 1791 by Hon. Carl L. Bucki
- Constitutions, Elections and Legislatures of Poland, 1493-1993