長崎英造
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長崎 英造(ながさき えいぞう、明治14年(1881年)8月13日 - 昭和28年(1953年)4月29日)は大正、昭和の実業家。妻は桂太郎の次女の茂子。
[編集] 来歴・人物
広島県安佐郡三篠町(現広島市西区三篠町)生まれ。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学と進み、大蔵省入り。その後台湾銀行を経て大正2年(1913年)幻の総合商社、神戸の鈴木商店に入り大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京支店長時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。大正14年(1925年)鈴木商店を退社。2年後の昭和2年(1927年)鈴木商店は倒産した。
その後東京株式取引所などに関係しながら、旭石油社長時代に帝人事件で訴追された。
久米正雄や小山内薫、久保田万太郎らと革新演劇グループ「国民文藝会」を設立したり、久米らに雑誌『人間』を発刊させたり、郷里広島大学の設立委員長になるなどの文化人的活動や、自らも資本政策の論文を多く発表。戦後は吉田内閣の経済顧問となり、昭和22年(1947年)産業復興公団総裁に就任した。さらに昭和25年(1950年)財団法人日本証券投資協会会長に就任し、日経連顧問、経団連日米経済提携懇談会会長などを歴任し、日本経済の復興と躍進の基盤作りに尽力した。
尚、東海林太郎を満鉄に入れた事でも一部に知られる。東海林太郎は満鉄を辞めてのち国民的大歌手となった。